2008年12月24日水曜日

オリジナルツールを目指して。

最近、考えているのはオリジナルのツールを作ることです。

年末にかけて多くの方が我が研究室に来てくださいました。

その中には企業さんも沢山いらしたのですが、その方々が人間中心設計と関わる際に自社で製作したオリジナルのツールなども見せていただきました。

それらをみて思ったのが、一口に人間中心設計といっても、使う人それぞれにとってスタンスも目的も利用の仕方も異なっていて、それぞれのやり方に対して追及していった結果、オリジナルのサポートツールが作られているということです。

もちろん、それはカレーと一口にいっても、それぞれの家にそれぞれのカレーの味があるのといっしょです。おんなじカレールーを使っていても、味はぜんぜん違うものになってしまいます。
でも、その家で育った人にとって一番舌になじむ味というのはその家のものです。

それと同様に使いやすさというものを求めていくと、最終的にはオーダーメイドに勝るものっていったいどれだけあるのでしょうか。

それぞれの企業で、大学でUCDへの取り組み方というのは異なってきているのだから、それらをサポートするオリジナルツールというものが出てくるべきだと思いました。

それらの話を前提に、研究室の先輩方とお昼ご飯を食べているときに、話を振ってみたらうちの研究室にもいくつかやはり必要なツールというものがあるんじゃないかという話になりました。

UCDを学ぶ上で、研究室という単位で活用していくうえで、今のうちの研究室で問題となっていることをいくつか洗い出してみました。

すると大きく分けて、二つの問題点が上がりました。
それは以下のようなものです。

1. ペルソナを作っても活用しきれていない
2.UCDを一連の流れとして知っていても、応用ができない。

1のペルソナを作っても活用しきれていないというのは、ペルソナをコンセプトの抽出にしか使っていないということです。よくよく考えてみればペルソナを作成したところで、どのように活用しているかと考えてみたときに、コンセプトや五つの提供価値を導き出すためだけに使われている感がすごく強いことがわかりました。それってすごくもったいないことだし、提供価値などを導き出して以降はそれらのキーワードのみをみて作業してしまうのだったらそのキーワードに書かれた前後の文脈はどこにいったの?という話になっていってしまいます。
 また、そのようにしていった場合、ペルソナの存在を忘れて上司や担当の教員によってデザインの修正がおこなわれていった場合は、その上司や担当の教員の好みにあったデザインへと変わっていってしまうのではないかという恐れもあります。その上司や教員がペルソナと同一である場合を除いてそれはUCDであると言えるのでしょうか。

次に、2のUCDを一連の流れとしてしっていても応用ができないというものについてですが、こちらに関しても、ものすごく簡潔に行ってしまえば、プロセスや手順は理解しているけれど、何のためにそれをするのかよく理解していない。という状況であると思います。

言われたからやりましたという典型的な例であるといってもいいでしょう。

僕たちの研究室はUXD(ユーザーエクスペリエンスデザイン)研究室です。なので、ペルソナを作ることも多いのですが、教授がつくれっていったから作ってきた。なんて感じでいる人も多いのではないのでしょうか。またトヨタUDにおいて普段UCDと関わらないほかの分野の人たちと共同作業を行った時も、気をつけなければ作れって言われたから作りましたということになりかねないという気がしました。

ですので、UCDには6つの段階があり、それぞれの段階で具体的に何をして、どのようなことを調査すればよいのか、またその調査方法にはどんな種類のものがあり、それらの手法にはどのような長短があるのかといったことを理解できるようなツールが必要であると実感しました。

もちろん、上であげたようなことをきちんと理解している人もいるのですが、わかっていたとしても難しいというのが現状です。


これらの問題点をもとに、僕自身が使いたいがためにオリジナルツールを作成していくことにしました。一応冬休み中も作業はしていくつもりですが、春に行われる学外展示会の準備や卒研のブラッシュアップなどもあるので、完成は春休みくらいになるのかなと思っています。

春休み中にほぼ完成させ、一年間実際にプロジェクトなどで使用してみながら改良していくという流れにしたいと考え中。

ちょっと楽しみでもある。

2008年12月22日月曜日

ちば戦略的デザイン活用塾 第3回



12月18日は、ちば戦略的デザイン活用塾の第三回目がありました。

三回目は「ビジネスに役立つwebデザインの基礎知識」というタイトルで山崎和彦教授が担当しました。

ちなみに、二回目はこちらのブログで紹介していないのですが、僕が風邪でダウンしていたのでかけていません。


さて、三回目はタイトルのとおり、WEBサイトをビジネスにどういかしていくかという話を具体的な事例とワークショップを通して学んでいきます。

今回は、前半はwebサイトとビジネスというものがどのように関係しているのかということを事例などを用いて説明していきます。

また、WEB2.0とはという講義からアクセス解析などを用いた戦略などのお話をしました。



その後は、見る人に興味を持たせるために~シナリオの作成~ということで、
シナリオを用いたWEBサイトの作成などのお話をします。

ここからは実際に作業を通して学んでいきます。

まず、実際の調査を通さないのでペルソナとは言えませんが、実際に自分の企業にとって対象となるユーザーを明確にすると言う意味で、ペルソナシートのテンプレートにユーザーの情報を記入し、それらを基にシナリオを作成、WEBサイトのコンテンツなどを考えるということを行いました。



このように見てみると、それぞれの企業さんごとに、面白いコンテンツが出てきていたりしてなかなかバラエティに富んでいたように思えます。


最近では、個人経営のお店ですらWEBサイトを持たないといけないなんていわれていて、本当にWEBサイトがビジネスの受け口となっているんだなと実感しています。

このちば戦略的デザイン活用塾も後半へと突入です。
最後までお手伝いしていこうと思います。

2008年12月20日土曜日

ifを考える。

何事に対しても、ifで考えることと言うのはえてしてネガティヴなものとして評価されます。

「もし、あの時ああしていれば」

「もし、~だったら」

いわゆる「たら、れば」という話です。

今回はそんなタラレバな話で、コペンハーゲン解釈やら、多次元世界解釈とか一見関係ありそうで、全然関係ないお話です。あの有名なシュレディンガーさんちの猫も今回はお休みです。


人にとっての使いやすさとは何だろうとたまに考えることがあります。

そもそも、使いやすさとは、その人の生活の中での行動によって生まれてくると思います。
それはずっと生きてきた中での経験知であったり、生まれ育った環境そのものの歴史としての文化や知恵や風習であったりだと思います。

そういった文化や風習の中で練磨されてきたデザインは何世代という人々の手を経て洗練されたものとなっていくわけですが、その結果をすべて手放しで喜ぶということに対していささか疑問を感じるのです。

行ってしまえば、何世代も経てデザインされてきたと言うことは、それらのプロダクトが人々の風習や文化、社会などに対して適応し、生物でいうところの進化を遂げてきたようなものなわけですが、それらの進化の過程で停滞期であったり円熟期を迎え、人々の手によって改良や適応がなされなくなって現在に至った場合において、それらの製品は本当に現代の社会、文化、風習にとって使いやすいものでるでしょうか?

もちろん、デザイン進化の停滞期、円熟期と言うものが訪れた時点で、それらの製品は人々の生活から必要とされなくなってきているということでもあるわけですので、適者生存なんていう考え方も十分適応されるのだと思います。

ブランドと一緒で、停滞記、円熟期(衰退期)は支持されるものであれば訪れないものなのだと僕は考えます。


そういったことを考えたとき、現在僕たちの生活の中で当たり前のように使われているモノたちが本当に私たちにとって使いやすいものあっただろうかと言うと必ずしもそうでないと思うわけです。

デザインされた当時と今の間に生まれる時間という決定的なギャップこそがそれらの使い辛さの原因の内の一つなのではないでしょうか。

当時はそれでよかった。しかし、今はそうではない。

そういったことが普通にある気がします。
(当時は画期的だった法律が、時代に適応した改正を行わないせいでいまや抜け道だらけであるというのに似ているかもしれないですね)

先ほどからデザインの進化という言葉を使ってきましたが、進化という言葉を使っている以上はご想像のとおり、進化の分岐点があり、それらの分岐点を調査、分析していくことで実際には辿られなかった別の形に進化したIFのデザインを導き出せるのではないかと言うのが今回の話の終着点です。


最近、大学院生の授業の中で「自分の手法を作る」というようなことをやっているようなので、前から思っていたこんなことを言ってみたり。

地域や文化に根付いたデザイン展開の手法とか面白そうだなと思ったこのごろ。

ペルソナよりももっとマクロな視点でのデザイン活用法とか。

なんかとりとめもないですが、とりあえず思ったことをメモ程度に。
実はいくつか具体的な方法も考えていて、実際に活用してみたらどうなるかちょっと楽しみ。

2008年12月13日土曜日

箸について考えてみる。

面白い話ができる人っていますよね。

ここでいう面白いってのはギャグとかそういう意味ではなく、興味深いとかそういった意味のほうです。

昨日は研究室に泊りこんで論文を書いていたんですが、その時一緒にいた研究室のメンバーと「北欧デザインと日本のデザイン」についての話になりどんどんと話がそれ、アノニマスデザインへテーマが移行し、お箸についての話になりました。

欧州では両手を使ってフォークとナイフで食事をする。

それに対し、日本では片手でそれらの役割をする。


なんでかと考えると、日本には茶碗を片手でもって食べる文化があるからじゃないか。

では、なぜ日本には茶碗を持ち上げるような形式ができたのか。
料理の器をも手に持って食べるのは世界的にマナー違反だそうですが、なんで日本はそうなったのか?

宗教だとか、政治だとかも多少はかかわってくるのだと思うのですが、まず床文化であるというのが大きい気がしました。

椅子に座らず、床で食事をするという行為には、どうしても手で持ち上げなければこぼしてしまいます。

大陸側に比べ、国土面積が狭く日本の家屋に椅子文化が根付かなかったというのもあると思います。

調べてみると、日本において、食事をする場所というものが存在しなかったので料理を置かれた場所(配膳された場所)がつまりはダイニングになるようです。


こんな風にひとつのことを突き詰めていくと、なんか歴史をたどっているようで面白いです。
調べれば調べるほど、日本て面白い歴史や文化の宝庫ですね。


こんな話に付き合ってくれる友人に感謝です。

2008年12月8日月曜日

条件が同じなら必ずしも同じ結果になるとは言えない。

同じ授業を受けても、成績がみんな同じになるわけではないのと一緒で、

同じ情報を得られたとしても、それを活用できるかといえばそうとも言えない。

情報デザインフォーラムの夏のワークショップのときに、コナミの小林さんが「何の根拠もなく、教えているわけでなく、とりあえず一回やってみることが大切」という話をしていたのを思い出しました。

いま、卒業論文をまとめているわけですが、そういえば今年一年たくさんいろんなことをやってきたなと思いなおし、インターフェースの作成なんかにカードソーティングなんかを活用してみようなんて思った。

たしかに、勉強会に出かけてやってみなければもったいないし、身に付かない。


そう考えると、本当にたくさん学んだし、卒業制作に生かせることだってたくさんあるじゃないか。

なんて視野が狭くなっていたんだと本当に思いなおした。


せっかく学んでもそのあともそれを使い続ける人とそうでない人の間には違う結果がでるって話。

2008年12月6日土曜日

ユニバーサルデザインについて 3 

昨今、金銭的な格差問題が取り上げられていますが、それと同じくらい今、情報の格差というものが起こっていうるといわれています。

テレビやラジオ、新聞といったマスメディア系のもの以外にも、WEBや携帯電話なんかがそこに入ってきたことで、プロフやmixiに代表されるようなブログ形式のものや、WEB2.0といわれるようなユーザー発信の情報というものが増えてきています。

そういった背景から、今までとは比べ物にならないほど世の中には情報があふれ、こちらからあえて情報を取得しに行かなければ得られない情報などもあり、情報収集に意欲的な人と。そうでない人の間に大きな格差が生まれるということらしいです。

また、情報を持たない人、知るすべを持たない人たちのことを情報弱者なんていう言葉で語るような場合もあります。

こういったPCなどにより情報を収集活用できる人と、PCを持たない、またうまく操作できない、インフラが整っていないなどさまざまな条件により情報の活用ができない人との間では、情報を持つ、持たないということで社会的な格差が生まれてしまうことをデジタルデバイドなんていったりするそうですが、情報の格差がそのまま社会的な格差(金銭やサービスの享受)へもつながるなんて話を聞いてしまうと、情報化社会なんてメディアの中でしか聞いたことのないような単語が事実、今の社会をきちんと表しているなと実感します。

また、情報を収集するだけで、そこから実際にその情報を使う人がどれほどいるかというとグンとパーセンテージは低くなりそうですね。

昨今、情報のユニバーサル化という話を耳にするのですが、このような背景があれば納得できるというものです。身体的な問題で、WEBを利用するのが困難なかたや、PCや新しいサービスにうまく適応できない人など様々な人がいるわけですから、その人にまず情報を入手できる環境を作ること。

そして、情報のUDとはその情報を活用するところまで範囲は及ぶ気がします。

①情報を入手する   デジタルな問題

②情報を活用する。  フィジカルな問題

この情報を活用するというところまでできなければ、ユーザーにとって歯がゆいままですよね。

また、情報の活用とは結局のところその多くがフィジカルな問題でもあったりします。
なんだフィジカルな問題であるなら、今までのパブリック的なUDでいいじゃないかと思われるかも知れませんが、この①と②の間をつなぐ1.5があるかないかがカギになってくると思います。

先ほど、情報を入手してから活用するまでに一気にパーセンテージは減るだろうという話をしたのですが、それは①と②をつなぐ間にはいくつもの障害があるからであると僕は思います。

たとえばそれは純粋に面倒くさいということかもしれないですし、
精神的なものかもしれません。
金銭的かもしれませんし、時間的な余裕や、手段の不足なのかもしれません。

情報に限らずUDという言葉はなぜかその場限りやその場しのぎの解決に向きがちであると思います。

たとえば、僕のいた高校ではエレベータがないのになぜか二階に車いす用のトイレがありました。
それはもしかしたら県立の高校だったので、条例的な問題で形だけ取り入れただけなのかもしれません。

①の部分だけのUDとはたとえばそれは
ECサイトで商品は見つけやすいけど、めちゃくちゃめんどくさい手順を踏まなきゃ購入できない。そんな状態なのかもしれません。

商品を見つけたあとの購入までやって初めて情報のUD化となるのかなと思いました。

2008年12月2日火曜日

市場調査。

卒業研究でオーディオ系のもの扱うということになってから何回か市場調査を行っているのだけど、なんかに詰まったときだったりに気分転換に外にフィールドワークに出かけたりするついでに家電の売り場を見たりする。

そういった場合、大手の電気店や売り場であるほど店員の方が話かけてくるのでこれ幸いとそんなときは軽くインタビューしたりしています。



店員「なにかお探しでしょうか?」

ミ「父が今度定年を迎えるのでオーディオを贈りたいのですが、よくわからないので下見に来たんですが」

店員「それでしたら……」


といった感じで20分前後立ったままのインタビューをします。
まぁ、いっても相手は売ること前提なのですが、最近のうれいきとか、具体的なお客さんの反応なんかを話してくれるので、自分でパンフレットをみたりするよりも生々しい話が聞けて良いです。
あと、売り場担当の方なので、JAZZにはこのオーディオ、クラシックはこっちなど小ネタも聞けて面白い。しかも向こうから話しかけてくれるので大変やりやすい。


なんか店員さんを騙しているようで後ろめたい部分もあるんですが、あながちウソだけではなかったりします。

実は今回の対象ユーザーの元は自分の父なんですよね。
実際父はあと数年で定年を迎えるので、今回のインタビューもしっかり生きるという話。

退職後の生活というテーマも、自分の父が依然帰省中に「退職したらどうするか」というようなことを言っていたのを思い出したからにほかなりません。

まぁ、こんなこと本人には言えませんがね 笑

身近な人を思い浮かべたほうが一年間卒研とうまく付き合えるんじゃないかという自分の想いもあったわけですけれど。

話を戻します。

そんなこんなで何回目になるか分からない売り場での聞き込みで今回わかったことは。

今回はミニコンポについて聞いたんですが、

最近、多くのユーザーはコンポを買う際にほとんど自分の持っている携帯音楽プレイヤーに合わせて買うんだそうです。考えてみればそうなのですが、自分はほとんど音楽はPCに繋いで聞いているので意識していませんでした。

家に帰ったらプレイヤーをコンポに繋いで曲を聞くのだからまぁ、納得できる話です。

それで、今回のターゲットである50~60代向けのコンポってのを案内してもらったのですが、

ついているものが、CDとMDとラジオ。

自分が中学の時に使っていたコンポと性能的には一緒でした。

若い人むけのコンポのインターフェースはずいぶんとすっきりしているのに対し、おじさん向けコンポは昔ながらのつまみやダイヤルやら、画面もいまだに単色のドットで数字とカタカナが出る程度。

最近の50代の方たちは仕事でもPCを使うので、PCとの連動にあまり抵抗がないというのは春にやったインタビューでも得られた回答だったのだけど、あまりのギャップにちょっと面くらいました。

確かに、PCに苦手意識を持つ人だっているんでしょうけれど「おじさんはPCに弱いから以前のままでいいよね」って雰囲気がすごく否めない。

もちろん、そのアナログ感というのが売りだというのならそれ相応のしつらえがありそう。
変わらないことを望むユーザーがいれば、新しいものに順応できる人もいる。

そういった人たちは若い人向けのコンポを買えばいいという感じなのでしょうか。
企業である以上、お金が絡むのはしょうがないですけど、それもまた違う気がします。

そもそもコンポという存在がいまの時代(音楽を聴くスタイル)にあまり適応できてない部分も多いと思いますし。

PCに抵抗がないということと、GUIに抵抗がないは決して=ではないということは気づけたのでよしとします。

いろいろ課題も見えてきました。時間は本当にないのですが、できるだけやってみよう。

2008年12月1日月曜日

第二回 smile experience

入口にはポスターが展示されています。
なんかやらせ臭い人がいますが、やらせです。



11月30日はオープンラボでした。

僕の所属している山崎研究室では春と秋にsmile experienceと題しましてオープンラボを開催しています。

オープンラボとは、名前のとおり研究室を開放し、研究室で行っているプロジェクトや卒業研究などを外部の方々に見ていただき、意見をいただくというものです。

smile experienceという名前は、山崎研究室のテーマでもあるユーザーにとっての心地よい体験のためのデザインというところからきています。そのはずです。
このポスターは院生の此川さんが作ってくれました。

テーマは「金の卵の集まる研究室」だそうです。春の段階では全部卵だったのですが、今まさに孵化しようとしているものや、もうひよこになっているもの、まったくかわりなく卵のままのものまであり、この半年で目覚ましく成長する人もいれば、のんびりしている人もいるというのがあらわているようにも見えますね 笑

今回はお隣の佐藤研究室、情報系では原田研究室との3研究室合同オープンラボとなりました。
とっても豪華ですね。


パネルディスカッションの様子。 トヨタUDプロジェクトでやったベビーカーも説明しました。


自分の卒研パネルとイメージモック

自分も先生方や外部の方に卒業研究の意見を貰いました。

「退職後に新たに趣味を見つけるためのデザイン提案」です。

おじさんたちが、どうすれば新たな趣味を見つけていけるのか。今回はインタビューの回答で多かった音楽というものをテーマに選択しました。

現在の提案としては、

「MIDIデータを利用した、いじれるジュークボックス」


という方向性できています。

楽曲の音色やピッチなどを専門的な知識もなく、何気なくできる。でも奥が深い。

そんなところを目指しています。

もっとディティールやいろいろ詰めなきゃという感じですね。

情報系の先生方は本当にピンポイントで意見をくれるので参考になります。
自分でも悩んでたりするところを指摘されてドキッとする場面も……。

プレゼンテーションをする佐藤先生

会場は半分はパネル展示。もう半分は各研究室の先生による講演がありました。
こちらも結構人が埋まってました。

鍋と野秋さん

オープンラボは三時で終了し、その後は懇親会で鍋をしました。
最近は寒くなってきましたし、鍋のおいしい季節になりました。

部屋の隅に、浅野先生と野川さんと野秋さんと陣取って楽しく飲み食いしました。
鍋の良さはこのわいがや感ですね。

今度新しく入ってくる三年生たちもモチベーションの高い人が多いので来年の山崎研究室が楽しみです。

オープンラボに来てくださった皆さん、ありがとうございました。
うちの研究室はイベントが多いので、また機会がありましたら是非お越しください。

2008年11月29日土曜日

感動とは変わること。

以前、学校という場というエントリーの中で、心のクオリティという話に触れました。

人の心(感性など)は多くの体験や経験をへてクオリティをアップしていくという話です。

もとはエリオット・ノイスが口にしていた言葉だそうですが、この単語が気に入っていてよく使っています。


自分の好きな写真家さんで、もう亡くなってしまったのですが星野道夫さんとう方がいました。

星野さんはアラスカでオーロラやそこに住む動物たちを撮り続けた方なのですが、最後は写真を撮っている最中にグリズリーに襲われて亡くなってしまいます。

ぼくが最初に購入した写真集は、秘蔵のフィルムと彼のエッセイを混ぜた追悼のためのメモリアルブックでした。この本は奥さんが監修されたようです。

その中の一説にこんな言葉があって今でもずっと印象に残っています。


星野さんはある友人とこんな会話をしたそうです


「もし、どうしようもなく見ているだけでなきたくなってしまうような夕焼けを見たときにどうやったら自分の愛する人や、家族、親しい人たちにその感動を伝えることがだろう?君ならどうする?」

「そうだな、手元にカメラがあれば写真をとるかも知れないし、絵を描く才能があったなら絵をかくかもしれない。言葉で伝えてもいいかもしれない、でもどれもその時の感動を伝えられないかもしれない」

「僕が思うに、それには自分が変わることだ。その感動を受けて自分が変わっていくことが一番人にその感動を伝えられる」


心のクオリティという単語からはこの話をいつも思い出します。

本当に、心が打ち震えるような感動にはそれだけの力があると思います。
それを糧にできたならその人の人となりににじみ出てきます。

心のクオリティはそういった感動をもとに経験知を重ね、変化を何回も重ねていくことで上がっていくのだと僕は思うのです。

また、感動とは本来、受け身ではなくもっとアクティブなものであってもいいのかなと自分は思います。

2008年11月25日火曜日

心構え。

設える(しつらえる)という言葉が好きです。

国語辞書なんかで設えという単語を検索してみると


しつらえる しつらへる 【設える】 (動ア下一)[文]ハ下二 しつら・ふ

(1)ある目的のための設備をある場所に設ける。
「広間に―・えられた祭壇」

(2)部屋の内装や設備などを飾りつける。
「王朝風に―・えられた客間」

大辞林 第二版 (三省堂)



辞書なだけに妙に簡潔ですが、ただの準備や用意だけではない気もしますね。


先日、文化祭で写真系のサークルの展示にいきました。
会場全体は結構凝ったつくりだったのですが、そこにある個人個人の写真の展示の仕方が写真を印画紙ごと直に壁に張り付けてあったりして、見せるということを意識されていないように感じました。

額に入れろとまでは言わないですが、せめて台紙に張るなり、パネルにするなりしないとちょっとあんまりにも見る側としては悲しい。

写真が好きな人たちが展示にくると思うのですが、それなのに写真を雑に扱ったり、直に地面にばらまいてあって踏まれて文句言えないような状態だったり。

もちろん、きちんと意識しているひともいたのですが、半数くらいは意識していない。

展示なのだから、見る人のことを意識するってとても重要だとおもうのですが。


そんなときに今回のこのしつらえるという言葉を思い出しました。


よく茶道の世界にその言葉は使われます。

そこで言われるしつらえとはお客さんに心地よく快適な場を提供するための準備であるといいます。

それは時に演出であり、時に掃除であったりします。


例えば、茶道というと多くの人が思い浮かべるでしょう千利休にはこんな有名な逸話があります。

夏の日に、庭の朝顔が満開になったので利休は、豊臣秀吉に

「朝顔が美しく咲いたので、お茶でも飲みにきませんか?」

と提案すると、当時、茶に熱を上げていた秀吉も、満開の朝顔を眺めながら茶を飲むのは趣があると意気揚揚と利休の茶室へと出かけることにした。

ところが、秀吉が利休のところへやってくると話に聞いていた満開の朝顔がすべて切り取られていて拍子ぬけする。

なんだ満開の朝顔はみられないのかと期待していた分がっかりして茶室に入ると、床の間には一輪だけ朝顔が生けられていたそうです。

満開にさいた朝顔を、秀吉の為にすべて切り取り一輪だけ茶室に生ける。


それをみた秀吉はえらく感心したのだとか。




別の話ではこんなものもあります。



秋ごろ、利休は茶会の前に庭先に積もった落ち葉を掃除するように弟子に申しつけた。

掃除が終わりましたと弟子がいうので見に行くと、キレイに掃かれていて地面には一枚も落ち葉がなかった。

すると利休はおもむろに掃きためた落ち葉を数枚ほどまた地面に散らして「これで掃除は終わった」と言ったそうです。

弟子はなぜ、せっかく落ち葉をはいたのにまた散らすのか問うと、

「この季節であるなら、地面に数枚の葉があったほうがより自然だからだ」と答えたそうだ。

荒れたままの庭では失礼だが、人の手が加わった痕跡がまざまざと見えていては秋の風景も興ざめであると、茶会に来る人のをもてなすためのしつらえ(演出)であったそうな。

茶道にとっての掃除とは、転じてお客さんを迎え入れるためのしつらえなのかもしれません。


茶道には露地という茶室に連なる庭があり、その景色からすでにお客さんをもてなすための演出がはじまっているといいます。




自分はデザインを学んでいるわけですが、このしつらえるという感覚はデザインする作業にすごく似ていて、同じようにデザインしたものがどの様に使われるか、どうすれば心地よい体験ができるのかを目指して作業を進めていきます。

それは時に演出であり、時に生活の知恵でもあります。

また、それを全面に押し出さす、当り前のように相手への配慮をするというのがとても大切だと思っています。

押しつけられた茶よりも、さりげなくこちらに配慮してくれて出された茶のほうがやはり心地よいし嬉しい。

UDの時も思ったのですが、さりげなく当たり前のようにユーザーへの配慮がされているというのがやはり理想なんでしょうね。

しつらえるとは、その行為の先にいる人に対する心構えのようなものなのかもしれません。

最近、茶道の歴史について調べ始めたのですが、宗教や政治も絡んでいてなかなか面白いです。
日本という国の歴史をたどる上では文化的にも、歴史的にも大切なところかもしれません。

2008年11月23日日曜日

生活に根付いたデザイン。

日本という国で見た場合、デザイン振興を考えるのならばもっと生活に根付いたデザインが求められるのではないかと思う今日この頃です。



いいデザインに触れなければ、よいデザインであるかどうかすらわからない。


ユーザー自身のデザインへの視点を底上げしなければ、デザイナーの底上げも果たされない。


なら、やはりユーザーが日常的に使うものこそデザインされたものであるべきではなかろうかという思考ですね。

デザイン関係者やデザイナー同士で、

「君のデザインは最高だよ!!」

なんて褒めあっていたってなんにもなりません。
それは趣味でやればいいことな気がします。



無印良品という西友のプライベートブランドがありますが、このブランドの試みは非常に面白く感じています。

デザイン自体はちゃんとしたデザイナーにさせ、発売の際には一切それらの情報を売りにしない。

意図的にアノニマスなデザインを目指し、近所の女子高生や主婦たちがそれらのデザインされたプロダクトを日常の中で使っています。

デザイナーにデザインさせているのに、それを売りにしない。


デザインされていてもそれは突飛なものではなく、消費者の生活の中に根付く気づきである場合が多い。

だからこそ、受け入れられているのかもと思います。

また、そういったことをスーパーのブランドが行っている。

非常に身近でありながら、よいものを扱う。
無印良品とはよ食ったものだと思います。


なぜ、いまこれだけデザインという言葉が氾濫気味の世の中で、無印良品が売れているのか。
それはひょっとしたら消費者の目が肥えてきたということなのかもしれません。

アドヴァンスドなものや、新しいインタラクションデザインを求めることも大切なわけですが、それ以上に、もっと身近なものをデザインすることって大切なんじゃないのかと思います。

プルトップのデザインとか。

調味料の入れ物とか、素材そのものの形状とか。

例えばそういったものとかを試しにデザインしてみると、勉強になるかもと思った今日この頃です。

2008年11月21日金曜日

イノベーションとはなんだろう?

気がつけば、セイコーのPower design projectが出てました。

このプロジェクト結構好きで見ています。


今年は東京の町の名前がついた時計のようです。


以前、このプロジェクトの話を友人としていたときに思ったことがあります。

それはお客様にとってのデザインとデザイナーにとってのデザインはけっして同じではないということです。


このプロジェクト、あるデザイナーさんは「デザイナーのお遊び、おふざけ」と言います。

厳しい人なら「こんなものデザインじゃない」とまで言うそうですが……。

でも、それらはみんなデザイナー側の目線です。



一般のお客様、消費者からすれば立派にデザインされたものになります。

消費者の求めるデザインとはなんなのか?



今の世間の感じですと「他の人とは違う」というある種ブランド的なポジションにいる気がしてなりません。

造形によって付加価値をもたらすという意味ではいいのかもしれませんが、それだけがデザインではないはずです。




デザイナーズの商品はかっこいいけど使いづらい


と僕の友人たちはよく言います。

それが今の世間の人たちのデザインに対する感想なのかもしれません。




携帯電話のデザインなんかは特にそうですが、有名デザイナーの方が手がけたものほど町中で使う人を多く見かけるというこの矛盾。


携帯電話は確かに若い人のアイデンティティですからそうなるのもわかるのですけれどね。
常に持ち歩いて、友達の眼に触れることの多いツールですから納得です。

そのため、携帯電話の世界にはブランド携帯やデザイナーズ携帯、デコ電などなど他社と自分のものを差別化するものがたくさんあります。

最近ではデコレーションをするためにあえてフラットな携帯が売れているとか。


ブランド物でもデザイナーズのものでも大量生産しているわけですから、だれか同じものを持つ人がほかにいるのは当たり前です。



なので、メーカーには期待せず、自分でつくるデザイナー不要の流れに一部なってきているのだと聞きます。




企業としては儲けを出さなければいけないので、売れるものを作らなければいけないわけですが、だからと言って消費者の要望に答えていくだけではそこに発展性など求められない。


問題解決型のデザインから、消費者へ提案していくヴィジョン提案型のデザインへという流れになってきている気がします。

商品(プロダクト、環境、情報、サービスなどにたいしての)新たな価値や経験の創造、提案。

それが巷で話題のイノベーションというカタカナ語の一つの答えな気がしてなりません。

デザインとはデザイン関係者だけがわかる、賞賛するというものではない気がします。


イノベーションが新たな社会的な価値、経験の創造だというのなら、そのデザインは人々の生活に近くなければ果たされないでしょう。社会は人が集まって成り立っているわけですから。

また、逆を言えばイノベーションをする際に、消費者側に受け入れる土壌がなければイノベーションをしたところで成功はしないとも言えるかもしれません。

タッチパネルが浸透していなかったら、iphoneやDSは受け入れられなかったかもしれません。

イノベーションが開発側からのヴィジョンの提案であるならば、それを受け入れるための消費者の認知やインフラや文化、地域特性などの、また地球規模での環境問題すらもその範疇に入るべきでしょう。

イノベーションとカタカナで聞くとなんとも素晴らしく感じますが考えるべきことはたくさんありますね。

2008年11月16日日曜日

第二回 情報デザインフォーラム

観察からリフレーミングについての話をする櫛先生


第二回情報デザインフォーラムが横浜はゲーテ座博物館で行われました。

今回は夏に行われた、情報デザインフォーラムのワークショップの成果発表という形になりましたが、その前に、京都工芸繊維大学の櫛先生から「リフレーミングとエスノグラフィー」という講演がありました。

リフレーミングとは、従来の定義(フレーミング)から一度抜け出して別の次元で再定義することだと、自分は受け取りました。

観察においての視点、軸を別に設けてあげるということにちょっと近いのかもしれません。

いままのでの観察というのは決められた定義の中で見ていたものを、リフレーミングすることで、観察から洞察へと変わっていくという話がありました。

そのためのツール、というか事例の一つとしてラピッドエスノグラフィーという話が出ました。

ラピッドプロトタイプのように、ビデオ撮影したものの再生を繰り返しその中から新たな再定義を起こすというものだと僕は受け取りました(違ったら突っ込み入れてください)

例に出てきたネガティヴ・シンパシーとポジティブ・シンパシーという言葉が印象に残ってます。


次に富士ゼロックス・デザイン部の蓮池さんから「ゼロックス社におけるエスノグラフィーの実践」という講義がありました。

社内の方を巻き込んでのエスノグラフィーの実践という話がおもしろかったです。

高機能コピー機はなぜその多くの機能を使われずにいるのかという話も興味深かったです。

いくつか社内で行っているデザインアプローチを紹介していただいたのですが、自分たちが普段やっていることと似ていて理解しやすい内容でした。

ただ、自分たちと違うのは、与えられた手法ではなく、作りながらのアプローチなので細部に自分たちなりのアレンジが加わっていたり、組織で使うためにより効率的に自社に適合した形にしていっているのかなという印象を持ちました。

既存のアプローチをそのまま使うのではなく、ケースバイケースでアレンジを加えていくのは見習うべきものだと感じました。


次に、とうとう、チームごとの発表に。

我らがCチームの成果物はこれです(字が読めるように大きめです)↓





ど~ん!!という感じで登場したこの色ものマップ。

このフィールドワークで見つけた気づきは

「山下公園はカップルのデートコースというイメージがあるけれど、実際にはおじさんたちもたくさんいて、親子連れやお昼寝するひとたちもそれぞれエリアごとにすみ分けている」

というものでした。

ワークショップの時の星をモチーフにしたマップから、素直にマッピングしたマップへいき、最終的にこのおじさんマップになりました。


たたき台1。

この段階ではまだ生の写真素材を使っていました。マップも平面的です。
フォローアップ講習会で、公園の緑のほうに意識が言ってしまうと指摘されます。




こちらはその後、素直に住み分けマップを作ってみたもの。
エリアごとの住み分けということでサファリパークのような感じでいってみようということに。

スタンダードなインフォグラフィックスという感じです。

でも、なんだろう?素直に言いたいことはわかるし、何となく言葉が通じなくても雰囲気はわかるのだけど、最初に自分たちが気づきの中に感じた面白さがなくなってしまった気がする。

見れば「うん、住み分けてるね」って言ってもらえるだろうけど、それでいいんだろうか?
自分たちの気づきを伝える手段にIGを用いるのならもっと行ってもいいんじゃないか?


それを追い求めることはデザイナーのエゴだろうか?

誰のためのデザインなんだろう?

でも、誰のためとかじゃなくて、今回のワークショップは気づいたことをIGに書き起こすって感じだしこれでもいいのかな?

しいて言うのなら、ゲーテ座に来てくれた人達に、自分達がやってきたことを伝えたほうがいいな。

なら、やっぱ最初の地図じゃなくて、おじさんたちが実は山下公園の陰の主役っていうギャップの面白さを伝えたほうがよさそうだな。

そんな葛藤の中、ぎりぎりまで作業して、このマップに行きつきます。


カップルや若者に負けずイキイキとどこか誇らしげに山下公園ライフを満喫するおじさんたち。

そんなコンセプトでチームみんなで作ってみました。

なんか作り上げた感はあります。


おまけ。個人的にお気に入りの自転車おじさん。没になった自分の出した案たち。


たたき台2.ためしに吹き出しにしてみたけど、最終案のほうが勢いがあっていいね。




今回、一番勉強になったのは、情報の扱い方でした

情報の扱い方、関係性。いろんなものを考慮してのIG。

いままでも意識していたつもりだったけど、こうやって実際にやってみるととまだまだ意識できてなかったんだと痛感させられました。

何より、他大学に仲のい友達ができたのも収穫としては大きいな。

本当に刺激をたくさんもらった気がする。

そんな感想しか今はでてきません。


何はともあれ皆さんお疲れ様でした。

2008年11月11日火曜日

ユニバーサルデザインについて2



道と私有地の段差をなくしても、入口が自動ドアじゃなければ車椅子やベビーカーの人にとってこのお店は遠いものになってしまう。




ユニバーサルデザインについてのまとめ二回目です。


前回はUDとはデザインの概念であるという話をしました。

今回は「パブリックとパーソナルについて」です。

今回のトヨタUDワークショップのテーマはパーソナルモビリティでしたが、多くの学生たちがUDとパーソナルというものがどうつながるかについて頭を悩ませました。


UDというとどうにもパブリックなものに意識が行きがちです。



なぜかというと、公共のものほど多くの人が使うものだから。



と、いうよりも、理想をいうのならばその公共施設を利用するすべての人に使えなければいけないのです。



なぜならば公共施設はみなさんが働いて払っている税金をもとに作られているからです。



言ってしまえば、国民みんなにその権利があるのに、利用状況に差があってはいけない。



その施設を使うにあたっての近づきやすさ(アクセシビリティ)は理想を言えば平等であるべきだと思います。



公共施設に適用されるアクセシビリティとパーソナルなプロダクトに適用されるUDとは同議なのかと言われるとそうではないように感じます。


パーソナルUDとパブリックUDと仮に呼称して、説明します。

僕が思うにパーソナルUDとパブリックUDの一番の大きな違いは、多くの人に利用可能なデザインにするために、他のユーザーの利用への満足度を下げたり、プロダクト自体の機能に制限がかかる場合がパブリックUDにはありえるということだと思います。



前のエントリーで僕はUDとは多様なユーザーニーズの平均値をとることではないといいましたが、公共物へのアクセシビリティを考慮する際にはそういった事例が存在する気がします。



その良い例が多機能トイレだったりするのかも知れません。


簡単にまとめるとこうなります。






おそらくUDへ持っていくためのアプローチの違いが表れているのだと思います。

パーソナルUDの場合、最初に個人にとっての問題解決、使いやすさが重視され、そこを突き詰めることにより周りの人間にとっても使いやすいものになっていきます。



まず最初に対象ユーザーありきです。UDの基本理念は最初からバリアを作らない設計ですが、対象ユーザーを決めたからといってその他のユーザーにとってバリアができるかと言われると必ずしもそうでないと思います。

早い話がやり方次第。



まず最初にユーザーの問題解決から入っていくという点ではバリアフリーと言えるでしょう。



多くの書籍や人がいっているように、バリアフリーとは、UDを実践する際の途中段階であると僕も思っているので、ここではそういった前提で話をしています。



まず最初に誰を救うのか、それを決めてからそのプロダクトのキャパシティの許す範囲で多くの人に使いやすいようにデザインしていきます。



最初に誰のためのデザインなのかを設定する
ので、だからHCDやペルソナ手法はUDに使われています。



次にパブリックUDの場合、最初にできるだけ多くの人が使えるように設計し(いわゆる平均値的なデザイン)、その後、どのユーザーのために特化していくかという流れになるのだと思います。(多くのパブリックUDは初期の段階でストップしているように感じます)







このようにUDと一口にいっても、対象物の立ち位置や人や物との関係によってアプローチの仕方が変わっていくべきなのだと僕は思います。






別に平均値的なデザインを否定するわけでもなんでもないのですが、あまりにも盲目的にそれをする傾向にあるように僕は思います(企業も学生も)。

用途によってどちらに比重を置くかということを考えましょうということなのではないでしょうか。

なんでもかんでもUDとはこうじゃなければいけないなんて言う必要はないのだと思います。


まとめ

・パブリックとパーソナルではUDのアプローチは変わってくる。

・バリアフリーはUDに発展する途中の段階である。UDに発展するためにはユーザーを深堀したデザインが必要です。

2008年11月10日月曜日

ユニバーサルデザインについて 1

フィールドワークで撮影した一枚。
せっかくのスロープも花壇にされては意味がない。
形だけのUDへの取り組み。



この半年間、ユニバーサルデザイン(以下UD)というものについて僕は学んできました。
その上で感じたこと学んだことをここにまとめておこうかと思います。



「ユニバーサルデザインとは概念である」


まず最初に僕がユニバーサルデザインというものを学ぶにあたってある程度の定義づけを必要としました。

それはUDとは何なのかということです。



世間一般に広まっているUDの定義として"すべての人に使いやすいデザイン"というものがあります。


でも、これってものすごく難しい話です。



僕みたいな学生でさえひとつの商品ですべての人に使いやすいものを作るというのはまず不可能なことであるということがわかります。



ではここで日本人間工学会が出しているユニバーサルデザイン実践ガイドラインを参考にしてみることにします。

そこにはこのように定義づけられていました。


定義

ユニバーサルデザイン: 多様なニーズを持つユーザーに、公平に満足を提供できるように商品(製品、サービス、環境や情報)をデザインすること。


とあります。

ではここで取り上げられている多様なニーズをもつユーザーとは誰なのか?



ユニバーサルデザインというとなぜかバリアフリーと混同してしまいがちですが、ユニバーサルという名前のとおりに、その対象は身体的な障害をもつ人だけにとどまりません。



国籍、言語、年齢、性別、体格差そういった個人的な特性にまで考慮しての多様なニーズを持つユーザーという言葉であると思います。



国籍や言語、文化や価値観すら違う人間ですらUDの対象になっているのです。



それらのユーザーを満足させるものを作るというのですからそれを一つのもので出来るというのはとても不可能です。UDは魔法ではないのですから。




どうしても、日本でのUDブームの際に使われたスローガンはたった一つのプロダクトですべての人にとって使いやすいものを目指すというような誇張した意味合いで広まってしまったように思えてなりません。




市場の中で、右利き用のハサミしかないときに、左利きの人は使いづらい。左利きの人にとってハサミというものは非常にストレスのたまるもので自分とは遠い存在であると感じる。




でも、そこに左利き用の人のハサミを作ってあげたことでハサミというプロダクトが左利きの人にとって使いやすいものになった。




これだってユニバーサルデザインに入ると僕は思います。


そもそも市場に選択肢がない人にとっては、選択肢が増えることすらうれしいそうなのです。


あくまでもできる限り多くの人にというところがポイントな気がします。



その後、いくつかの書籍やいろんな方と話していくうちにユニバーサルデザインとは概念であり、デザインの理想であるということがわかりました。




なので、このデザインはユニバーサルデザインであるということ自体が厳密にいうと間違っていることになります。正確にはユニバーサルデザインの理念に基づき、作ったものです。



このあたりは、以前特別講義で話にでたコンピュータの父であるアラン・ケイが目指した理想のPC ダイナブック、またはアップルの出したコンセプトマシン ナレッジナビゲーター、とそれを実現させようと発達してきたPCたちの関係に似ているかも知れません。




その理想を求めるから結果的に一人でも多くの人に使いやすいというものに繋がっていくのだと思います。

一度に理想には追い付かない。段階的にでもいいから理想に近づいていくそういったことが今現在のUDに携わる人の姿勢なのかもしれないと思いました。



UDが日本に入ってきた時に、定義づけがしっかりされずに広まったことがどうやら今のUDの位置づけに大きく影響しているようです。



人間工学のデータに沿って作ればUDなのか?

ロン・メイスのUD7原則に従えばUDなのか?

バリアフリーはUDに入るのか?




たくさん疑問は出てきますが、UDというものに細かい定義づけがないので「UDの理念に沿って作った」と言えばUDになってしまう世の中なのかもしれません。



UDと名のつくものでも本当に調査や検証をしてるのかと疑問に思うものもあります。



そんな中、UDをうたい文句にしているデザインは数ありますが、そういったものがUDだからと言って売れるかといわれると必ずしもそうではないようです。




デザインの審美性もあるのだとは思いますが、それ以上にいま世の中に出てきているUDと名のつくものはすべての人に使いやすくいいながら、バリアフリーと混在されているものも多い気がします。




手に障害を持つ人のためにデザインしたハサミ(仮にUDハサミとします)が、手になんの不自由もない自分たちにとって使いやすいかと言われると話は別です。


UDハサミを自分たちは使えますが、ただ使えるということと使いやすいということは違うことです。

UDとは障害を持つ人と、持たない人の満足度(使いやすさ)の平均値をとることとはまた違ってきます。



お互いの平均をとることで製品の性能さえ制限し、低下させてしまうくらいであればどちらかに特化したほうがより多くの人に受け入れられるものになるでしょう。



UDを売りにして市場に入っていくのではなく、僕が思うにUDとはもっと人々の生活の中にさりげなく点在し、馴染んでいるものであるべきだと思います。


そのいい例が牛乳パックの凹みだと思います。




最近増えてきましたが牛乳パックには注ぎ口の反対側にへこみが付いています。



これにより手で触ってどちらが開け口かわかるのです。
目が不自由でない人でも、間違えて反対側を開けてしまったことがある人も多いはず。

そんな人もこれを知っていればもう間違いませんね 笑



この生活の中に溶け込んでいる感じが大切だと思います。

なんだそんなことかと思うかもしれませんが、そんなことでも、見事にUDを実践して見せているのです。



UDはまるで便利でデザインの救世主のように、特別なものであるかのように宣伝されてきましたがもっと生活の中に自然と密着し、当り前にあらゆるデザインの根底にあるべき理念であると思います。

そしてその理念とは大袈裟な宣伝などしなくとも、さりげなく生活の中で確かに多くの人を助けているこのようなデザインに近いのだと思います。




UDにはたくさんのアプローチの仕方がありますが、僕がなるほどと一番納得できたのがこの例でした。

シャンプーのギザギザや、お酒の点字のように身の回りにあるものでも、ちょっとした工夫で多くの人に使いやすくなるものはまだまだある気がしてなりません。


以下、今日のまとめです。

・ユニバーサルデザインとはデザインの理想であり、理念である。

・バリアフリーとユニバーサルデザインは違う。

・ユニバーサルデザインとはもっと人の生活の中に溶け込んでいくべきもの。

2008年11月9日日曜日

トヨタUD ファイナルプレゼンテーション



昨日はトヨタUDのファイナルプレゼンテーション。



この半年間ずっと卒業研究すら放置気味にして力をかけてきたプロジェクトだったのでそれも終わりかと思うとなんだか感慨深いものがある。


この日に向けて連日の徹夜。移動中は寝ます。



各チームがプレゼンテーションをして最後に優秀賞の発表となったのだが、どうやらわがチームは惜しくも(アドバイザーや審査員のかたの話を聞く限り)二位だったらしく賞をとることができなかった。

順位や賞がつけられるものの中でそれが取れないことはなんて寂しいことだろうか。
本気でやってきただけに悔しいものがある。

参加することに確かに意義はある。それによって学んだこともたくさんある。

それでも、賞をとれることと、取れないことの差は大きい。

ただひたすら自分の詰めの甘さと、未熟さを痛感させられた日だった。

2008年11月5日水曜日

学科コラボレーション。




8日に、UDワークショップのファイナルプレゼンテーションが控えているので、最近はチームメンバーともにタイトなスケジュールを押しています。

夜遅くまで毎日ミーティングや作業をする日々です。
(理系大学では夜通しの実験などが普通にあるので、遅くまでいられます。工業大学の特権ですね。)

そんな中、今日はワークモックに使うコンパネをのこぎりで地道に切ってきました。

大学の中には工作センターという機材が置いてある場所があるのですが、そこは大型の機械なども依頼をだすと使用できます。

難しい操作がいるものでも、専門の作業員のおじさんがいるので、ある程度の加工であれば可能なのです。

今回は円をコンパネから切り出すべく”トリビアの泉”にて日本刀とも対決したウォータージェット裁断機の依頼を出しに行きました。

はじめての以来だったのですが、うちの施設のものだと1m正方の中におさまるものでないとできないとか。

電動ののこぎりもベニヤを切れる大規模のものが芝園キャンパスにしかないため、研究室にあったコンパクトなのこぎりでせっせと切ることに。



昨日、近所のホームセンターで910×1820のものを三枚も買ってきてしまったので地味に疲れる作業をすることになりました。

結局、明日依頼することに。

学科の演習室を使おうとしたら管理担当の先生がいなかったので使えず、工作センターの建物の陰でやることに。

のこぎりでせこせこと作業をしていると、機会サイエンス学科の先生に声をかけられました。

こんなところで作業していたから文句の一つも言われるのかとおもったら、普通に世間話に。

自分たちがデザイン科の生徒だとわかると、

こんど椅子を売り出そうとおもうんだけど、デザインの人がかかわるとよく売れるというような話をされて若干、夢の学科コラボレーションにつながるような話をされました。

よく、売れるからデザインを使いたいという言葉に少し思うところはありますが、そういった需要があることも事実ですしね。

相手の先生が本気かどうか測りかねたのですが、少なからずそういった話をできるようになってきているというのはいい傾向な気がします。

仮に実現できそうだとしてもこの時期に、これ以上関わるプロジェクトを増やすと卒業研究が危うくなりそうだし悩むところですね。

2008年11月4日火曜日

学生プロポジション

一日に、日本デザイン学会の秋季大会で行われた学生プロポジションに行ってきました。

午前中に用意をして、午後1時30分からの開始らしいので、それまで近くにある国際こども図書館で食事をとることにしました。
以前、ゼミの中で先生が紹介されていたので、見学も兼ねてです。



中にはいるとなんともいいカレーの香りがして、友達5人でいったのですがみんなカツカレーを頼むことに。鰻と焼き鳥は匂いで売るなんていいますが、カレーの匂いにもかなりの力がありますね。


食事を終えたところで、館内の見学に行きます。


室内での撮影が憚られたので、その看板を。
なかではお父さんが子供に読み聞かせをしていました。
設計者が描く理想のシーンですね。ほんとうにそうやって使ってもらえてるというのはよいデザインのなせる技なんでしょうか。

工作のコーナーにあったポップアップについての本を子供に交じってしばらく読みふけってしまった。
なかなかおもしろい本がそろっていますね。
世界をしる部屋という別室があったのですが、そこはもともと貴賓室で一般の人間は入れなかったのだとか。いまでは、海外の絵本なんかが展示してありました。







次に二階へ。

なんとも味のある吹き抜け。階段の裏側が木目になっている。この大きさの階段ではなかなか見ない光景ですね。



手すりというよりも、瓦といったほうがしっくりくるきがする。なんとも規模が多きい。




昔の名残。以前は外壁だった部分が室内にあるとおもうとなんか変な気分ですね。
建物の規模が大きいのでそういったものだと思えばあまり違和感はないのかもしれないですが。


なんともでっかい要石。改修の際に、床下に埋もれてしまった窓の一部です。こういったものを発見するのも面白い。


時間がせまったので、会場にもどると、今回のテーマでもあるロボットの実演が始まるので見に行きます。



ブロックごとに連結して様々な形になるロボット。なかなか怪しい動きをしていて面白かったです。
会場を沸かせていました。


こちらは千葉大の院生のかたのロボット。
筋電図を応用した、バイオインターフェースをつかってロボットを操作するようです。
このときは腕のひねりなどで、コントロールしていました。こういったインターフェースが進んでいけば体感型ゲームから、障害を持つ人の生活までいろいろと豊かになっていきそうです。


四足歩行ロボット。足がローラーに代わってスケートモードに変化するのだとか。

甲殻機動隊のタチコマに一番近いロボットだといっていました。

将来的にはこういった多脚車両って本当につくられていくんでしょうか。




その後、ビールで懇親会。他大学の生徒さんとも仲良くなれて楽しいひと時でした。
「お互いに卒業製作(研究)をがんばりましょう」と励ましあいました。



その後は一緒に出展していた院生の先輩と、隣の研究室の生徒と、KAZUKIさんと一緒に、佐藤先生におすすめのBARに連れて行ってもらいもう一回乾杯。

本当はギネスビールを飲もうとしていたのだけど、そのお店が貸切で断念しました。

次こそはギネスを飲みに行きましょうといって、その日は解散に。


最近、外へ出向くことが多くなって刺激を沢山もらっています。

まだあと三つほど締切が間近にあります。
時間は有限だから、使い方を考えないといけないなと最近思う次第です。

2008年11月1日土曜日

背景と華。





ついにデザイナーズウィークにはいりましたね。皆さんはもうどこかへ出かけられたのでしょうか。

僕は昨年から東京ミッドタウンで開かれる DESIGN TOUCHに参加するようにしています。

昨年の今頃 21-21DESIGN SIGHTにて行われた WATER展に連動して、

佐藤卓さんの「なぜデザインで水なのか」というカンファレンスを受けてすごく勉強になったので今年もこちらにきました。(外苑前もいいけれど、人ごみで帰ってきてからいったい何をみたのかなと思うことも多かったので、それだったら著名なデザイナーに習おうということにしました)


今年は四つほどカンファレンスの予約が取れたのですが、いろいろ急に予定が入ったりブッキングしてしまい友人にほとんど譲ってしまいました。

そのなかで、唯一いけたのが今日のデザインタッチのカンファレンスです。

「世界の名品に通じる無印良品の思想」という3時から7時30分までかかるかなり長いものでしたが、深沢直人さんの話が聞けると思い参加しました。

時間が一時間ほど余ったので今年からこちらでやるデザインタイドを見ました(こちらは後日機会があれば上げます)



まず、最初に会場に行って驚いたのが出演者のところに三名の名前が出ていたこと。


深沢直人


Konstantin Grcic


James Irvine


なんと有名なデザイナーが三人も集結していました。今回のカンファレンスの目玉だけありますね。

James Irvine、Konstantin Grcic、深沢直人さんの順にプレゼンをして、最後に三人でパネルディスカッションをして終了になりました。

James Irvineさんは、CHAIRS&CHOPSTICKS(椅子と割りばし)という、デザインが環境に適応して進化してきた歴史を紹介し、

Konstantin GrcicさんはA BICYCLE RIDE TO DESIGN(自転車に乗ってデザインの世界へ)というテーマでバウハウスから、マルセルプロイヤーがいかにカンティレバーを用いたかという話をしました。最後にKonstantin Grcicさんはこう言いました。

MUJIの美しさとはほかの製品と組み合わせたときに美しく映えるところにある、と。


最後は深沢さんが「世界の名品に通じる無印良品の思想」というテーマでプレゼンされました。
今までの二人のプレゼンテーションをうまくまとめあげるように導入していきます。

そんな中で以下のような言葉ありました。



シンプルとはスタイルのことではない。


ミニマリズムとはシンプルということではなく調和しているということである。

調和したデザインは、空気が変わる。何かいいと感じると深沢さんは言います。



それらをふまえた上で今回のエントリーのタイトルである
背景と華という話に移っていきます。



もし、今の世の中に華美なデザイン(華)があふれているのなら、MUJIはそれらを際立たせるためのの背景に徹しなければいけない。


もし、みんなが前へ前へと出たがるのならばMUJIは退かなければならない。

それらはいうなればわきまえであると言える。

今の世の中にあふれるデザインに人々がつかれたとき、華美なデザインの
対極にあるMUJIに今の人々は帰ってくるのかもしれない。


MUJIがいい
MUJIでいい



そんな風にお客さんは思っているのかもしれないと。



これはなかなかに考えさせられるお話でした。

よくMUJIはシンプルだといわれるが、それは時代が華美なデザイン、強烈なデザインを出してくる中であえて対極にいる存在がいるのではないかという考えに基づいているそうだ。

もし、この言葉どおりだとするのなら、時代がシンプルなデザインに収束するのであればきっとMUJIは挑戦的で、革新的なデザインへと移行していくのでしょう。

そんな話の中で深沢さんはいくつかのMUJIのデザインを事例にあげて説明していきます。



この空気清浄機は、ドアや部屋についている通風口のブラインド部分をメタファにしている。


MUJIが目指すのはあくまでも背景である。でも、その中にもみんながなっとくするなるほどというものがなければいけない。

普段はそのものに対して大して認識していないが、体がしっかり知っている。

慣れ親しんでいるものがデザインのソースになっている。

それがMUJIらしさである。と深沢さんは言います。




有名な深沢直人さんのMUJIの壁掛け式CDプレイヤーです。
正直いって今日まで僕はこのプロダクトがあまり理解できませんでした。
よく、これは換気扇に例えられ、一見すればただの面白商品になりかねません。

でも、パネルディスカッションの際にJames Irvineさんがこういったのです。

「このCDプレイヤーは一曲聞き終わらなくても好きなときにつけ、消すことができる」


その言葉を聞いたときに僕は感じました。

このプレイヤーは換気扇なんかではなくきっと、部屋の電気にちかいものなのだと。

そう考えることで、なんか納得してしまいます。

部屋にはいって、部屋の電気をつけるような感覚で、心理的にもシームレスに生活の中に音楽を組み込む。

それこそがこのデザインの魅力なのかもしれないと。

多分、僕がこの壁掛けCDプレイヤーのある部屋に入ったら引っ張ってしまう。

明確に使用シーンが描けることで一気にプロダクトが魅力的に思えてしまうから不思議ですね。


最後に深沢直人さんはこういってプレゼンテーションをしめました。

世界の名品はMUJIに通じる。


背景と華という話はとても面白く、プロダクトメインで考えるのではなく、ほかとの調和を考えるという思想には感じるものがありました。

すごく面白い刺激をもらった気がします。

普段、なかなか聞けないMUJIの中の話も聞けて非常に興味深い一日でした。

2008年10月30日木曜日

たったひとりのためのデザイン。

30日はトヨタUDサブミーティングの三回目に出席するため、お台場はパレットタウンにあるユニバーサルデザインショーケースにいきました。


11月8日にファイナルプレゼンテーションが迫り、最後の調整となっています。

ワークショップではあるのですが、一応結果に順位が付きます。

そこで、見事一位になれれば特典があるわけでみんな頑張って追い込みの最中です。

昨日は僕がプレゼンテーションをしたのですが、なんとか無事に乗り切りホッとしている最中です。

先生方に質問されたときにパッと相手の望む答えが出せる。というのは、毎日のようにフィールドワークに出て観察を続けたおかげだなと痛感しました。

デザインとは観察から始まると前に言われたことがあるのですが、なるほど、実際に体験してみるとよくわかりますね。

講師の皆さんからは概ね良い評価を得られたように思います。

各チームのプレゼンテーションが終わると、今回の運営をしてくださっているトライッポッドデザインの中川さんから「たった一人のためのデザイン」という講義がありました。


プレゼンの中にもその単語が出てきたのですが、ペルソナを使ったUDのアプローチです。

タイトルにもあるとおり、たった一人のペルソナのためのデザインを追及することで、そのほかの人へも使いやすいものが出てくるのだそうです。

UDを実践していくにあたって、重要になってくるのがどれだけ暮らしの実態に迫ったかということです。
そういった意味でユーザーの飾り気のない生活を観察するというこはかなり大きなウェイトになってきます。

また、フィールドワークなどで発見した気づきですが、
一人を深堀することで気づきが進化するのだそうです。

この一文はペルソナを使ったデザイン提案をよく表していると僕は感じました。
ペルソナは足かせでなく、気づきを進化させるための情報でもあるのだと思います。

誰のためにデザインするかということを明確にするのがペルソナ手法であるといわれていますが、
ユーザーを明確にしたことで更なる発見や気づきの進化があるわけですね。

ここでは事例として脳性マヒによって指先がうまく使えない女性をずっとつきっきりで(コンテキスチュアルインクワイアリー法ですね)取材したときのことを出していました。


密着取材を続けていくうちに、その女性の本音は以下の三つであることがわかったそうです。

1.本当にかっこいい下着がほしい。

2.良い歯ブラシがほしい。


3.使いやすいお箸がほしい。



この中から3番の使いやすいお箸をデザインすることになりました。

ここでまず彼女と一緒に生活し、観察に入ります。
彼女は脳性マヒの影響で、右手の指を数本しか動かすことができません。

そんな状態でも、お箸を使って食事をしているそうです(使いこなすのに3年かかったそうです)

そんな彼女が今のお箸にもっている不満は以下のようなことでした。

・丸くないこと(机の下に転がってしまってはそこでおしまいだから)

・四角い箸を使っているが角が食い込んで指に負担がかかること(痛くなってしまう)


最初、デザイナーがバネがついたような食べることをアシストするお箸を提案したところ、彼女に即却下されたそうです。


・せっか
年もかけてお箸を使えるようになったのに、バネなんかついているのはやだ。

・お箸を使っている自分を格好よく見せてくれるものでなかったら使いたくない。



さらに彼女はこういったそうです。


「プロダクトデザイナーはすぐにバネとかついたものを作りたがる」



確かに、障害を持つ方のためのデザインと言うとそういったものを想像してしまいがちです。

そういったものが必要な人もいるとは思うのですが、何でもかんでもそういったスタンスで作ろうとするのがデザイナーのエゴ(決め付け)なのかなと思いました。

そのデザイナーの考えの中に実際に使うユーザーが決まっていない場合が多いのです。

だけど、ユーザーが明確であるから、そういったものにならなかった。

実際の本人からそれが却下されたということなのだと思います。

また、彼女に密着取材する上で、彼女のお箸の使い方が見えてきたそうです。

中でも興味深かったのが、挟むというタスクを立てて彼女にお箸を使ってもらっているときに、実際は行動の三割程度は刺しているということがわかったそうです。



ユーザーは自分の言葉や概念で物事を定義していると中川さんはおっしゃっていました。

ユーザーの中の定義と自分の中の定義が一緒であるという前提を無くさなければいけない。

ユーザーに対するヒアリングは大切ですが、こういった意識間のずれというものがあるので、そこを注意して情報を扱わないと大きな勘違いを起こしたままデザインをしてしまいそうです。


このようにプロトタイプの作成と評価を繰り返した結果できたお箸がこちらだそうです。




指が当たる部分がえぐれているデザインの箸です。
写真を見せてもらったのですが実際に協力者の方に渡したものはアクリル製の透明なものできれいでした。その方はいろんなところにもって行って見せびらかしてつかっているとか。


このお箸、使ってみたら自分たちでも使いやすかったので、提案してみたところ今ではJALの国際線のファーストクラスに使われているのだそうです。


ここで思います。
もし、最初に提案したバネつきのお箸だったなら、自分たちにも使いやすかったのでしょうか。
JALのファーストクラスに採用されていたでしょうか。

ユニバーサルデザインとは、魔法のように万能なイメージが先行して広まってしまいましたが、こういった地道な活動をもとに、日常の中にさりげなく存在していなければいけないのではないかと僕は思います。

使いやすさだけでなく、メンタルな、エモーショナルな部分をどう詰めていくか、実際の協力者(ペルソナ)とどうかかわっていくか。いろいろと勉強させられた一日でした。

2008年10月29日水曜日

研究室ツアー

そういえば、今まで自分がどんな所で勉強しているかというのを紹介していなかったと思うのでやってみようと思います。

ほかの人が普段どんな環境の中でデザインをしているのか、僕は興味があるので、もしかしたら僕と同じような感覚の人に需要があるかもしれません。


ご存じの方もいるかもしれませんが、僕たちの研究室はこの夏に新しくできた20階建てのタワーに引っ越しとなりました。


ここは先生と院生の人が使う部屋です。
先生のコレクションや、作品が並んでいます。

山崎先生曰く「いいデザインに囲まれていると目が肥えてくる」のだそうです。
そういったことが後々に、デザインセンスを磨くということにつながってくるのかもしれません

環境というのはやはり大事ですね。

いろんなプロダクトと蔵書が壁一面にあります。

本好きの自分としては何とも居心地の良い空間です。

後ろのデッサン人形は誰かがいつも変なポーズをつけている。



シンクパッドと研究室のマスコット IBM犬。

この真っ黒な机は飲み会の時や、勉強のときに大活躍。

シンプルだけど木の質感が出ていてかっこいいです。


先生お気に入りのホワイトボード。
確かに、このホワイトボードが来てからミーティングがしやすくなったような気がする。


こちらは四年生の部屋。
この木のテーブルは研究室の四年生の木村君と小林君が作ってくれました。


メタルラックの中に入っているのは、私物を入れておく衣装ケース。
人によって何も入っていない人もいれば、すでにぎゅうぎゅうに詰まっている人もいてなかなか個性が出ている。

別名 お道具箱。





そしてうちの研究室の特徴は、なんといっても他の研究室とつながっていること。
この通路を抜けると隣の研究室の四年生の部屋となる。

大きな部屋を真ん中についたてをおいて分割している感じです。

人の出入りは基本的に自由で、同じデザインという分野でも違う領域を学んでいる他の研究室の友達から日々刺激を貰っています。


最初は完全に分割していたのですが、四年生が配属になったときに、四年生同士の仲が良かったためついたてを一枚はずして見たところ、お互いの研究室との交流が深まり、引っ越した今も仲良くお隣さんになってもらっています。

今では一緒にプロジェクトをする仲です。

僕自身なかなか面白い関係で非常に気に入っています。

やっぱ研究室も閉鎖的ではだめで、お隣の研究室と今のような関係になったからこそ、今の山崎研究室があると思います。

環境を整えてやると、人間関係すら変わっていくという面白い例かもしれませんね。



廊下から見た研究室。通路に置いてある棚は学生の作品ギャラリー……のはずだったのですが、荷物の整理が途中のまま、半分は荷物置き場になってしまっています。


ざっとですが、山崎研究室の巡回ツアーでした。


皆様、機会がありましたら、ぜひ山崎研究室に遊びに来てください。

個人的にはずっと開かれた研究室でありたいなと願う今日この頃です。