2008年11月10日月曜日

ユニバーサルデザインについて 1

フィールドワークで撮影した一枚。
せっかくのスロープも花壇にされては意味がない。
形だけのUDへの取り組み。



この半年間、ユニバーサルデザイン(以下UD)というものについて僕は学んできました。
その上で感じたこと学んだことをここにまとめておこうかと思います。



「ユニバーサルデザインとは概念である」


まず最初に僕がユニバーサルデザインというものを学ぶにあたってある程度の定義づけを必要としました。

それはUDとは何なのかということです。



世間一般に広まっているUDの定義として"すべての人に使いやすいデザイン"というものがあります。


でも、これってものすごく難しい話です。



僕みたいな学生でさえひとつの商品ですべての人に使いやすいものを作るというのはまず不可能なことであるということがわかります。



ではここで日本人間工学会が出しているユニバーサルデザイン実践ガイドラインを参考にしてみることにします。

そこにはこのように定義づけられていました。


定義

ユニバーサルデザイン: 多様なニーズを持つユーザーに、公平に満足を提供できるように商品(製品、サービス、環境や情報)をデザインすること。


とあります。

ではここで取り上げられている多様なニーズをもつユーザーとは誰なのか?



ユニバーサルデザインというとなぜかバリアフリーと混同してしまいがちですが、ユニバーサルという名前のとおりに、その対象は身体的な障害をもつ人だけにとどまりません。



国籍、言語、年齢、性別、体格差そういった個人的な特性にまで考慮しての多様なニーズを持つユーザーという言葉であると思います。



国籍や言語、文化や価値観すら違う人間ですらUDの対象になっているのです。



それらのユーザーを満足させるものを作るというのですからそれを一つのもので出来るというのはとても不可能です。UDは魔法ではないのですから。




どうしても、日本でのUDブームの際に使われたスローガンはたった一つのプロダクトですべての人にとって使いやすいものを目指すというような誇張した意味合いで広まってしまったように思えてなりません。




市場の中で、右利き用のハサミしかないときに、左利きの人は使いづらい。左利きの人にとってハサミというものは非常にストレスのたまるもので自分とは遠い存在であると感じる。




でも、そこに左利き用の人のハサミを作ってあげたことでハサミというプロダクトが左利きの人にとって使いやすいものになった。




これだってユニバーサルデザインに入ると僕は思います。


そもそも市場に選択肢がない人にとっては、選択肢が増えることすらうれしいそうなのです。


あくまでもできる限り多くの人にというところがポイントな気がします。



その後、いくつかの書籍やいろんな方と話していくうちにユニバーサルデザインとは概念であり、デザインの理想であるということがわかりました。




なので、このデザインはユニバーサルデザインであるということ自体が厳密にいうと間違っていることになります。正確にはユニバーサルデザインの理念に基づき、作ったものです。



このあたりは、以前特別講義で話にでたコンピュータの父であるアラン・ケイが目指した理想のPC ダイナブック、またはアップルの出したコンセプトマシン ナレッジナビゲーター、とそれを実現させようと発達してきたPCたちの関係に似ているかも知れません。




その理想を求めるから結果的に一人でも多くの人に使いやすいというものに繋がっていくのだと思います。

一度に理想には追い付かない。段階的にでもいいから理想に近づいていくそういったことが今現在のUDに携わる人の姿勢なのかもしれないと思いました。



UDが日本に入ってきた時に、定義づけがしっかりされずに広まったことがどうやら今のUDの位置づけに大きく影響しているようです。



人間工学のデータに沿って作ればUDなのか?

ロン・メイスのUD7原則に従えばUDなのか?

バリアフリーはUDに入るのか?




たくさん疑問は出てきますが、UDというものに細かい定義づけがないので「UDの理念に沿って作った」と言えばUDになってしまう世の中なのかもしれません。



UDと名のつくものでも本当に調査や検証をしてるのかと疑問に思うものもあります。



そんな中、UDをうたい文句にしているデザインは数ありますが、そういったものがUDだからと言って売れるかといわれると必ずしもそうではないようです。




デザインの審美性もあるのだとは思いますが、それ以上にいま世の中に出てきているUDと名のつくものはすべての人に使いやすくいいながら、バリアフリーと混在されているものも多い気がします。




手に障害を持つ人のためにデザインしたハサミ(仮にUDハサミとします)が、手になんの不自由もない自分たちにとって使いやすいかと言われると話は別です。


UDハサミを自分たちは使えますが、ただ使えるということと使いやすいということは違うことです。

UDとは障害を持つ人と、持たない人の満足度(使いやすさ)の平均値をとることとはまた違ってきます。



お互いの平均をとることで製品の性能さえ制限し、低下させてしまうくらいであればどちらかに特化したほうがより多くの人に受け入れられるものになるでしょう。



UDを売りにして市場に入っていくのではなく、僕が思うにUDとはもっと人々の生活の中にさりげなく点在し、馴染んでいるものであるべきだと思います。


そのいい例が牛乳パックの凹みだと思います。




最近増えてきましたが牛乳パックには注ぎ口の反対側にへこみが付いています。



これにより手で触ってどちらが開け口かわかるのです。
目が不自由でない人でも、間違えて反対側を開けてしまったことがある人も多いはず。

そんな人もこれを知っていればもう間違いませんね 笑



この生活の中に溶け込んでいる感じが大切だと思います。

なんだそんなことかと思うかもしれませんが、そんなことでも、見事にUDを実践して見せているのです。



UDはまるで便利でデザインの救世主のように、特別なものであるかのように宣伝されてきましたがもっと生活の中に自然と密着し、当り前にあらゆるデザインの根底にあるべき理念であると思います。

そしてその理念とは大袈裟な宣伝などしなくとも、さりげなく生活の中で確かに多くの人を助けているこのようなデザインに近いのだと思います。




UDにはたくさんのアプローチの仕方がありますが、僕がなるほどと一番納得できたのがこの例でした。

シャンプーのギザギザや、お酒の点字のように身の回りにあるものでも、ちょっとした工夫で多くの人に使いやすくなるものはまだまだある気がしてなりません。


以下、今日のまとめです。

・ユニバーサルデザインとはデザインの理想であり、理念である。

・バリアフリーとユニバーサルデザインは違う。

・ユニバーサルデザインとはもっと人の生活の中に溶け込んでいくべきもの。