設える(しつらえる)という言葉が好きです。
国語辞書なんかで設えという単語を検索してみると
しつらえる しつらへる 【設える】 (動ア下一)[文]ハ下二 しつら・ふ
(1)ある目的のための設備をある場所に設ける。
「広間に―・えられた祭壇」
(2)部屋の内装や設備などを飾りつける。
「王朝風に―・えられた客間」
大辞林 第二版 (三省堂)
辞書なだけに妙に簡潔ですが、ただの準備や用意だけではない気もしますね。
先日、文化祭で写真系のサークルの展示にいきました。
会場全体は結構凝ったつくりだったのですが、そこにある個人個人の写真の展示の仕方が写真を印画紙ごと直に壁に張り付けてあったりして、見せるということを意識されていないように感じました。
額に入れろとまでは言わないですが、せめて台紙に張るなり、パネルにするなりしないとちょっとあんまりにも見る側としては悲しい。
写真が好きな人たちが展示にくると思うのですが、それなのに写真を雑に扱ったり、直に地面にばらまいてあって踏まれて文句言えないような状態だったり。
もちろん、きちんと意識しているひともいたのですが、半数くらいは意識していない。
展示なのだから、見る人のことを意識するってとても重要だとおもうのですが。
そんなときに今回のこのしつらえるという言葉を思い出しました。
よく茶道の世界にその言葉は使われます。
そこで言われるしつらえとはお客さんに心地よく快適な場を提供するための準備であるといいます。
それは時に演出であり、時に掃除であったりします。
例えば、茶道というと多くの人が思い浮かべるでしょう千利休にはこんな有名な逸話があります。
夏の日に、庭の朝顔が満開になったので利休は、豊臣秀吉に
「朝顔が美しく咲いたので、お茶でも飲みにきませんか?」
と提案すると、当時、茶に熱を上げていた秀吉も、満開の朝顔を眺めながら茶を飲むのは趣があると意気揚揚と利休の茶室へと出かけることにした。
ところが、秀吉が利休のところへやってくると話に聞いていた満開の朝顔がすべて切り取られていて拍子ぬけする。
なんだ満開の朝顔はみられないのかと期待していた分がっかりして茶室に入ると、床の間には一輪だけ朝顔が生けられていたそうです。
満開にさいた朝顔を、秀吉の為にすべて切り取り一輪だけ茶室に生ける。
それをみた秀吉はえらく感心したのだとか。
別の話ではこんなものもあります。
秋ごろ、利休は茶会の前に庭先に積もった落ち葉を掃除するように弟子に申しつけた。
掃除が終わりましたと弟子がいうので見に行くと、キレイに掃かれていて地面には一枚も落ち葉がなかった。
すると利休はおもむろに掃きためた落ち葉を数枚ほどまた地面に散らして「これで掃除は終わった」と言ったそうです。
弟子はなぜ、せっかく落ち葉をはいたのにまた散らすのか問うと、
「この季節であるなら、地面に数枚の葉があったほうがより自然だからだ」と答えたそうだ。
荒れたままの庭では失礼だが、人の手が加わった痕跡がまざまざと見えていては秋の風景も興ざめであると、茶会に来る人のをもてなすためのしつらえ(演出)であったそうな。
茶道にとっての掃除とは、転じてお客さんを迎え入れるためのしつらえなのかもしれません。
茶道には露地という茶室に連なる庭があり、その景色からすでにお客さんをもてなすための演出がはじまっているといいます。
自分はデザインを学んでいるわけですが、このしつらえるという感覚はデザインする作業にすごく似ていて、同じようにデザインしたものがどの様に使われるか、どうすれば心地よい体験ができるのかを目指して作業を進めていきます。
それは時に演出であり、時に生活の知恵でもあります。
また、それを全面に押し出さす、当り前のように相手への配慮をするというのがとても大切だと思っています。
押しつけられた茶よりも、さりげなくこちらに配慮してくれて出された茶のほうがやはり心地よいし嬉しい。
UDの時も思ったのですが、さりげなく当たり前のようにユーザーへの配慮がされているというのがやはり理想なんでしょうね。
しつらえるとは、その行為の先にいる人に対する心構えのようなものなのかもしれません。
最近、茶道の歴史について調べ始めたのですが、宗教や政治も絡んでいてなかなか面白いです。
日本という国の歴史をたどる上では文化的にも、歴史的にも大切なところかもしれません。