2008年10月30日木曜日

たったひとりのためのデザイン。

30日はトヨタUDサブミーティングの三回目に出席するため、お台場はパレットタウンにあるユニバーサルデザインショーケースにいきました。


11月8日にファイナルプレゼンテーションが迫り、最後の調整となっています。

ワークショップではあるのですが、一応結果に順位が付きます。

そこで、見事一位になれれば特典があるわけでみんな頑張って追い込みの最中です。

昨日は僕がプレゼンテーションをしたのですが、なんとか無事に乗り切りホッとしている最中です。

先生方に質問されたときにパッと相手の望む答えが出せる。というのは、毎日のようにフィールドワークに出て観察を続けたおかげだなと痛感しました。

デザインとは観察から始まると前に言われたことがあるのですが、なるほど、実際に体験してみるとよくわかりますね。

講師の皆さんからは概ね良い評価を得られたように思います。

各チームのプレゼンテーションが終わると、今回の運営をしてくださっているトライッポッドデザインの中川さんから「たった一人のためのデザイン」という講義がありました。


プレゼンの中にもその単語が出てきたのですが、ペルソナを使ったUDのアプローチです。

タイトルにもあるとおり、たった一人のペルソナのためのデザインを追及することで、そのほかの人へも使いやすいものが出てくるのだそうです。

UDを実践していくにあたって、重要になってくるのがどれだけ暮らしの実態に迫ったかということです。
そういった意味でユーザーの飾り気のない生活を観察するというこはかなり大きなウェイトになってきます。

また、フィールドワークなどで発見した気づきですが、
一人を深堀することで気づきが進化するのだそうです。

この一文はペルソナを使ったデザイン提案をよく表していると僕は感じました。
ペルソナは足かせでなく、気づきを進化させるための情報でもあるのだと思います。

誰のためにデザインするかということを明確にするのがペルソナ手法であるといわれていますが、
ユーザーを明確にしたことで更なる発見や気づきの進化があるわけですね。

ここでは事例として脳性マヒによって指先がうまく使えない女性をずっとつきっきりで(コンテキスチュアルインクワイアリー法ですね)取材したときのことを出していました。


密着取材を続けていくうちに、その女性の本音は以下の三つであることがわかったそうです。

1.本当にかっこいい下着がほしい。

2.良い歯ブラシがほしい。


3.使いやすいお箸がほしい。



この中から3番の使いやすいお箸をデザインすることになりました。

ここでまず彼女と一緒に生活し、観察に入ります。
彼女は脳性マヒの影響で、右手の指を数本しか動かすことができません。

そんな状態でも、お箸を使って食事をしているそうです(使いこなすのに3年かかったそうです)

そんな彼女が今のお箸にもっている不満は以下のようなことでした。

・丸くないこと(机の下に転がってしまってはそこでおしまいだから)

・四角い箸を使っているが角が食い込んで指に負担がかかること(痛くなってしまう)


最初、デザイナーがバネがついたような食べることをアシストするお箸を提案したところ、彼女に即却下されたそうです。


・せっか
年もかけてお箸を使えるようになったのに、バネなんかついているのはやだ。

・お箸を使っている自分を格好よく見せてくれるものでなかったら使いたくない。



さらに彼女はこういったそうです。


「プロダクトデザイナーはすぐにバネとかついたものを作りたがる」



確かに、障害を持つ方のためのデザインと言うとそういったものを想像してしまいがちです。

そういったものが必要な人もいるとは思うのですが、何でもかんでもそういったスタンスで作ろうとするのがデザイナーのエゴ(決め付け)なのかなと思いました。

そのデザイナーの考えの中に実際に使うユーザーが決まっていない場合が多いのです。

だけど、ユーザーが明確であるから、そういったものにならなかった。

実際の本人からそれが却下されたということなのだと思います。

また、彼女に密着取材する上で、彼女のお箸の使い方が見えてきたそうです。

中でも興味深かったのが、挟むというタスクを立てて彼女にお箸を使ってもらっているときに、実際は行動の三割程度は刺しているということがわかったそうです。



ユーザーは自分の言葉や概念で物事を定義していると中川さんはおっしゃっていました。

ユーザーの中の定義と自分の中の定義が一緒であるという前提を無くさなければいけない。

ユーザーに対するヒアリングは大切ですが、こういった意識間のずれというものがあるので、そこを注意して情報を扱わないと大きな勘違いを起こしたままデザインをしてしまいそうです。


このようにプロトタイプの作成と評価を繰り返した結果できたお箸がこちらだそうです。




指が当たる部分がえぐれているデザインの箸です。
写真を見せてもらったのですが実際に協力者の方に渡したものはアクリル製の透明なものできれいでした。その方はいろんなところにもって行って見せびらかしてつかっているとか。


このお箸、使ってみたら自分たちでも使いやすかったので、提案してみたところ今ではJALの国際線のファーストクラスに使われているのだそうです。


ここで思います。
もし、最初に提案したバネつきのお箸だったなら、自分たちにも使いやすかったのでしょうか。
JALのファーストクラスに採用されていたでしょうか。

ユニバーサルデザインとは、魔法のように万能なイメージが先行して広まってしまいましたが、こういった地道な活動をもとに、日常の中にさりげなく存在していなければいけないのではないかと僕は思います。

使いやすさだけでなく、メンタルな、エモーショナルな部分をどう詰めていくか、実際の協力者(ペルソナ)とどうかかわっていくか。いろいろと勉強させられた一日でした。

2008年10月29日水曜日

研究室ツアー

そういえば、今まで自分がどんな所で勉強しているかというのを紹介していなかったと思うのでやってみようと思います。

ほかの人が普段どんな環境の中でデザインをしているのか、僕は興味があるので、もしかしたら僕と同じような感覚の人に需要があるかもしれません。


ご存じの方もいるかもしれませんが、僕たちの研究室はこの夏に新しくできた20階建てのタワーに引っ越しとなりました。


ここは先生と院生の人が使う部屋です。
先生のコレクションや、作品が並んでいます。

山崎先生曰く「いいデザインに囲まれていると目が肥えてくる」のだそうです。
そういったことが後々に、デザインセンスを磨くということにつながってくるのかもしれません

環境というのはやはり大事ですね。

いろんなプロダクトと蔵書が壁一面にあります。

本好きの自分としては何とも居心地の良い空間です。

後ろのデッサン人形は誰かがいつも変なポーズをつけている。



シンクパッドと研究室のマスコット IBM犬。

この真っ黒な机は飲み会の時や、勉強のときに大活躍。

シンプルだけど木の質感が出ていてかっこいいです。


先生お気に入りのホワイトボード。
確かに、このホワイトボードが来てからミーティングがしやすくなったような気がする。


こちらは四年生の部屋。
この木のテーブルは研究室の四年生の木村君と小林君が作ってくれました。


メタルラックの中に入っているのは、私物を入れておく衣装ケース。
人によって何も入っていない人もいれば、すでにぎゅうぎゅうに詰まっている人もいてなかなか個性が出ている。

別名 お道具箱。





そしてうちの研究室の特徴は、なんといっても他の研究室とつながっていること。
この通路を抜けると隣の研究室の四年生の部屋となる。

大きな部屋を真ん中についたてをおいて分割している感じです。

人の出入りは基本的に自由で、同じデザインという分野でも違う領域を学んでいる他の研究室の友達から日々刺激を貰っています。


最初は完全に分割していたのですが、四年生が配属になったときに、四年生同士の仲が良かったためついたてを一枚はずして見たところ、お互いの研究室との交流が深まり、引っ越した今も仲良くお隣さんになってもらっています。

今では一緒にプロジェクトをする仲です。

僕自身なかなか面白い関係で非常に気に入っています。

やっぱ研究室も閉鎖的ではだめで、お隣の研究室と今のような関係になったからこそ、今の山崎研究室があると思います。

環境を整えてやると、人間関係すら変わっていくという面白い例かもしれませんね。



廊下から見た研究室。通路に置いてある棚は学生の作品ギャラリー……のはずだったのですが、荷物の整理が途中のまま、半分は荷物置き場になってしまっています。


ざっとですが、山崎研究室の巡回ツアーでした。


皆様、機会がありましたら、ぜひ山崎研究室に遊びに来てください。

個人的にはずっと開かれた研究室でありたいなと願う今日この頃です。

2008年10月23日木曜日

ちば戦略的デザイン活用塾 イブニング講座

木曜日は、ちば戦略的デザイン活用塾 通称 千葉塾のイブニング講座が開かれました。

第一回目となる今回の内容は「ブランド構築、ロゴ・マーク、PRデザインなどの基礎知識~グラフィックを活用して~」です。

今回の講師は、山崎先生と、原田泰先生。





山崎先生がブランディングの基礎を、原田先生がグラフィックスをどう活用していくかを説明します。



まずは山崎先生の講義。いくつかの事例をもとにブランドの意味、価値を説明して行きます。



最後にブランドとは何か?ブランドの役割とは?それを企業にどう活用していくかを話して、原田先生にバトンタッチとなります。


原田先生は最初に ブランド力とは物語る力であると定義して講義を始めます。

原田先生の講義はワークショップ形式で、手を動かしながら進んでいきます。

写真は、スクリーンに出された言葉を絵で表現してみる課題です。配られたポストイットにそれぞれ絵を描いていきます。

山という割とかきやすいものから、囲む、仲間、楽しいなど難易度は上がっていきます。


実際に書いたものを張り出してみて見ます。
ここで、自分の表現したものが、きちんと相手に理解されるかどうかという温度差を体感します。



参加者の皆さんの作品。いろんな囲むが描かれていますね。



次に、三つの丸に自分を表す単語や文章を入れ、それぞれに矢印などをつけることで、関係性を、持たせましょう。

それを利用して隣の人と自己紹介をしてみましょう。という課題に入ります。


自分も書いてみました。これはデザインに行きつくまでの僕の経緯です。

読書が昔から好きで、夜になっても読み続けてたらメガネをかけることになりました。

物語を演じるというのに興味をもち演劇部に入ることになりました。

演劇部で役者と大道具を担当していたので、舞台のセットを作っているうちにデザインに興味を持ち今に至ります。

そんな感じで書いてみました。


ここでは、プレゼンテーションの手法、媒体の活用で説明が変わるということを体験します。


グラフィックスとは文字と絵の特徴を兼ね備えた表現方法であるということと。

理解のための表現方法と、伝達のための表現方法は別であるということを学びます。

最後に実際のグラフィックスの活用事例を紹介し、イブニング講座の一回目は終了となりました。


皆さんに書いてもらったリフレクションです。今日学んだことを簡潔に書いてもらっています。



今回僕はお手伝いとして参加していたのですが、一般の参加者の皆さんと同じように学ばせてもらいました。こんなに丁寧に教えてもらえる機会ってあまりない気がします。


月に一回のペースで開かれるようなので、引き続きお手伝いという名目で参加していこうと思います。


関連記事
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夕方、駅前キャンパスでデザインを学ぶ


<追記>

ここで思ったことをいくつか。

・ワークショップを学んだことを自分の会社にどう生かせるのかということを少しでもいいから意識してもらう。

おそらくわざわざ受講料を払ってまで参加してくださっているのでそういった意識がある人が多いとは思うのですが、ワークショップの最初と最後位にそういったことに触れてあげることが大切なのではないかと思いました。

普段から意識を持っている人でも、課題をだされてそれをこなしているうちは忘れてしまうことのほうが多い気がします。

指示されて、課題をやりました。でも、ふと帰りの電車の中で、結局、今日は自分は何を学んだのだろうと思い返したときに、何も覚えていないではあまりにも悲しい。

きっとそうなてしまってはワークショップは失敗であったということになると思います。

また学んだことを明確化しても、それと自分の企業をどう結びつけたらわからない人というのは多い気がします。

まして、これからデザインを取り入れていこう という人たちなので、こちらからいくつかそういった例を提示してあげる。気付かせてあげる。考える機会を作るということが大切なのかもしれません。

あくまでも、自発的な問題提起や、デザインの利用を起こさせるということなので、ここはオープンクエスチョンに投げかけてあげるのがいいのかもしれません。

質問のコーナーなどに組み込んでみるのもいいかもしれません。

いずれにせよ、今回のような企業さんを相手にしたワークショップでは、最終的には明確なビジョンをもって取り組んでもらうということがやはり大切であり、それを実現させるための体験や知識を得て帰ってもらえば、満足してもらえるのではないかと思いました。

特別講義 ソフトデバイス 高橋憲一さん


毎週水曜日は特別講義の日。

と、いうことで、今週は京都からソフトデバイスの高橋憲一さんを迎えての講義です。





教室に入るのが遅れてしまったため後ろの席からの聴講となりました。(カメラの性能限界でズームしてもピンボケになってしまいました)
高橋さんを紹介する山崎教授。なぜかものすごく良い笑顔である。



まずはインタラクションデザインを語っていく前に、GUIの歴史から話は始まります。

GUIの歴史というのは大体においてコンピュータの歴史といってもいいのだそうです。

コンピュータの歴史には大きく分けてふたつあり、

ひとつはtoolとしての歴史。いかに計算処理を早くして、ミサイルの着弾地点を割り出すかなんて時代のもの。




二つ目はmediaとしての歴史。こちらはどちらかというと現在のパソコンのイメージに近く、インターネットをしたり、絵を描いたり、音楽を編集したりというようなもの。




PCの父と言われるアラン・ケイの描いた理想のPC ダイナブック構想の図。
子供たちが芝生の上で、手軽に、スケッチブックや本のようにPCを操作している。
ちなみにこの絵は本人直筆らしいです。

この時点で、すでにPCはtoolとしてではなくmediaとして発展することをイメージされていた。
のちに、このアラン・ケイが周囲の協力者たちと開発したのが、前のエントリーで書いた子供でもプログラミングがかけるsqueak Etoysなのだそうだ。

武蔵野工業大学で行われたsqueakのワークショップでもアラン・ケイについての講義があったばかりだったので、記憶に新しい話だ。

時代の大きな流れは1990のwindows3.0からだんだんとメディアに移行してきており、今現在のi phoneやwiiのような直観的な操作のインターフェイスへと来ているのだそうです。

その話の流れで登場したのが下のナレッジナビゲーター。(日本語版が見つからなかったです)
Knowledge Navigator



アップルが21世紀までに作ると言っていたコンセプトマシン。
タッチパネルと音声認識が搭載されている。




高橋さんの考えるインターフェイスとのかかわり方。
プロジェクターにはこう書かれている。

from usability to sociability
from task to experience
from human to humane


最後に、実際に制作されたインターフェイスの実例を見せていただき、講義は終了となりました。


高橋さんの講義の中で、日常の生活と作法を考えてのGUIという話が印象的でした。

インターフェイスは本当に奥が深いですね。

2008年10月22日水曜日

カレーとコンソメの毛布。



今日は久しぶりに新宿で友人と会ってきた。

こっちに越してきていたのは知っていたのだが、長らくあっていなかったのでつもる話も多い。

友人のアパートに行くと、いくつかのお菓子を開けてくれた。

あとからもうすこし人がくる予定だったので、準備を手伝っていると、

某製菓会社のコンソメパンチ味のポテトチップスを開けた時に、なぜか、そのニオイを嗅いで、

まるで押入れにずっとしまってあった毛布のようだなと感じた。

なぜ、急にそんなことを思ったのか不思議だったのだが、その久しぶりにあった友人が昔、

ずっと押入れにしまっておいた毛布はカレーせんべいのニオイがするといっていたことを思い出した。


冷やかし半分にそのことを相手に話してみると、そんなこと覚えていないというし、コンソメの香りを毛布のニオイという自分のことを変だと注意された。


なんでいきなりこんな話をしたかと言いますと、人間ってよくも悪くも変わるよねという話がしたかったのです。

もちろん、たかだか22年しか生きていない自分なんかよりも、人生経験豊富なかたは世の中には沢山いますし、きっとこのブログをいつも見てくださっている読者(そんな人がいるかは甚だ疑問ですが、いると仮定して)の方の中にはそういった人もいるとは思います。(インターネットを利用していて、なおかつ情報デザイン系のブログを読んでくださる人というと必然的にも、割合的にもきっとそうなってくるとおもいますが)

ここは、若いのがなんかいってるなぁ位に聞き流していもらえれば幸いです。


話を戻します。


人の思考や嗜好は年をとるにつれて変化していきます。

それは子供のころ嫌いだったピーマンやミョウガを、大人になると好むようになるのと似ています。

聞いた話によれば、それは人が、日々の生活を経ていく中で、経験し、体験し、無意識の上で学習しているからだそうです。

以前食べたこれと似ているな、だからこれは美味しいという信号を脳に出そう。

そんなやり取りが行われているらしいです。

きっとそれは小さい頃に自分たちが感じたものとは全く別でもっとオートマチックな作業なんだろうと思います。


僕には六つ離れた兄と、四つ離れた姉がいました。(というかいます。)
ある時、母親からおやつに出されたスナック菓子があったのですが、僕はそのお菓子がとても変な味に感じられて、自分の分を姉や兄にあげてしまった(半ばとられたといってもいい。)ことがあります。

兄弟のいる家ではどこも一緒だとは思うのですが。お菓子の分配をいかに公平にできるかが重要なのです。

ケーキを切ろうものなら定規を取り出して、お兄ちゃんのほうが一センチほど大きいなんてことを言い出す始末。

無論、我が家もそんな家庭の一つでした。

そんなお菓子争奪戦を日夜繰り返していた幼少時の僕が、なぜ兄や姉に素直にお菓子を上げてしまったのか。

それは、そのお菓子に入っていた人工の香料が、当時の僕の体に受け付けなかったからです。

そんな、僕も今では保存料たっぷりのコンビニ弁当をガリガリと食べ、体に悪いことし放題です。

きっと大人になっていく上で、心も体も社会や生活に適応していったのだと思います。



僕の好きな作家さんで森博嗣という元名古屋大の助教授だったミステリの作家さんがいるのですが、その人の小説の中にこんな文があったのを思い出しました。



「鳥類と哺乳類の分類から漏れたカモノハシとか、植物と動物の境目にいるミドリムシとか、彼らは、人間の考え出した分類を知らないわけだよ。だから、全然 影響がない。カモノハシが、自分の位置するところが中途半端で気持ちが悪いから、もうちょっと鳥っぽくなろうなんて思わないでしょう?でもね、人間は、自 分たちが作った分類システムを知っているわけ。そもそも、そのシステムこそが文化とか社会のバックグラウンドなんだから、笑う、怒る、泣くとかいうパター ンは、子供が成長する過程で教え込まれるし、本来の複雑さは、成長とともに、必然的にコントロールされて単純化へ向かう。赤ちゃんのときには、泣くと笑う の中間とか、笑うと怒るの中間の感情があったのに、いつの間にか、別々の物に離散化されて個別化される。わかる?大人になるほど、どんどん単純へ向かうん だよ」





ここでは、人間が決めた社会の分類に適合するために大人になるほど単純になると話しています。

ようはその単純化とは、社会に適合して生きていく上で、テンプレートとしてのルールに自らを適合させていった形なのではないかということです。

その過程で、個人の主観や個性といったものがどんどんと無意識化のうちに失われていく。


小さい頃はもっと複雑で、笑う感情と悲しい感情の中間なんていうものが存在していたのに、大人になるにつれてそういったものがパターン化していき消失していくのだそうです。


もう大分昔のものことになりますが、保育園の友達が、泣きながら笑っていたことが確かにあったなと思います。


大人になってしまえば泣きながら笑うという行為をすることが難しい。

そういった意味で子供のほうが優れている、柔軟であるといえるでしょう。

先ほどの味覚の話も、カレーせんべいの毛布の話も、同様です。

僕たちが大人になって、子供たちの描く絵を斬新だと思うのは、彼らの絵が個性的だからにほかなりません。

複雑な表現が可能なのだと思います。(そのひとつの例が既成概念にとらわれない)

それは僕たちがなくしていったものの一つなのかもと思いました。


僕たちが幼いころに感じたドキドキ感、わくわく感というのは、まだ単純化されるまえの子供だけの複雑なセンサが働いていたかで、たしかに僕たちは幼いころそういったドキドキやわくわくを経験していたのではないかと思ってしまいます。




なんて言うのは、夢見がちですかね 笑


いずれにせよ、ここでいう子供たちのもつような敏感なセンサーってものをもっていないなと思うものです。

人を幸せにしようとか、ハッピーな体験を考えようというときに、実体験がなければその魅力を十分に伝えられるとは思えません。すくなからず僕はそうです。

デザイナーを目指す上で、そういった些細な生活の中に敏感なセンサー(レーダー?)を持つというのは必要であると思います。

めずらしく、小難しいことを言ってしまった 笑


今日のエントリーこそ、まさに馬鹿がない知恵しぼって考えてみた感じでこのブログにはあっているのかもしれません。

たまには真面目に頭を使ってみました。

2008年10月21日火曜日

スケッチ集中講座 二回目


前回のスケッチ集中講座に引き続きSIIから久米先生をお呼びしてのスケッチワークショップです



今回は、机を壁モードにして、そこに授業で書いたスケッチを張っての講評会からスタートです。



先生たちがスケッチを見て回っています。公表を終えた後、さらに一時間ほどかけてスケッチを修正し、プレゼンテーションになります。


ちょっとピンぽけ写真になってしまいました。
なぜか今回もスケッチのプレゼンをしたひとの半分くらいが四年生でした。

三年生のための時間なので、出しゃばらずにいたのにまさかの指名が。

いまとなってはもっと、みんながつがついけばいいのにと思いますが、自分も三年生の時はシャイだったなぁと思い出に浸ります。

来週は中間発表らしいので、後輩たちがどんなアイデアを出してくるか楽しみです。


今日のメモ

・シーンのスケッチを描くときはもっとエモーショナルな感じが良い。

・シーンのスケッチとプロダクトのスケッチを描くときに頭を切り替える。


うーん、もっと自分も頑張らねば。修行あるのみですね。

2008年10月19日日曜日

squeak 第一回ワークショップ




武蔵野工業大学 横浜キャンパスまでsqueakのワークショップに参加してきました。

squeakといえば、発展途上国の子供たちがコンピューターに親しむ為に行われているOne Laptop Per ChildというプロジェクトのXO(通称100ドルノートPC)に入っている子供でも簡単にプログラミングを組めるソフトです。

以前に名前だけは聞いたことがあったので今回の参加となりました。



会場で、マックブックをお借りして、準備をしていると高橋靖先生とばったり会いました。

隣の席に並んで一緒に講義をうけました。



デザインにどうやって落とし込んでいこうかという話になり、おおざっぱな使い方としては、動きを確認するためのプロトタイプの製作には向きそうだという結論に。

フラッシュと違ってアクションスクリプトをいちいち打ち直さなくても改良できる点がつかいやすいという意見も出ました。写真は緑色の円の上を赤色の虫がはみでないように動き続けるというもの。



お昼休み。

食堂で持参した昼食を食べる。大きなピアノが置いてあったけど、食堂で演奏されたりするのだろうか。
明るく、きれいな感じの食堂でした。





みんなで問題を解決中。

大人がみんなで助け合ってる中、小学生くらいの子供は勝手に上達していくらしい。
子供の吸収能力って凄いらしいですね。一番素晴らしいことは失敗をおそれないことなのかも。



その後は小池先生の研究室で懇親会。

スクイークを高校教育やデザインの世界でどう生かしていけるかというような話に。


その後、小池先生が噂の100ドルノートPCを見せてくれました。
高橋先生のカメラさばきは顕在でした。








100ドルPCは思いのほかしっかりしていて高性能でした。
スクイーク以外にもペイントや作曲ツールなんかも入っていました。
ボディも頑丈に作られており、製作者側の意図がところどころに見受けられてなんか感心。



キーは一体型のシリコンカバーで覆われていてやさしいさわり心地。多少の汚れや水分なんてなんのその。




ネットワークの検索画面。非常に可愛い表示の仕方。



蓋を閉じた状態。このとってを持って友達のうちや、外へ遊びに出かけるのでしょうか。





とっての一部。ロゴマークがさりげなくつかわれているのが憎い。




津田沼からはそれなりに遠かったですが、教育という面でデザインってどうかかわっていくべきなのかななんてちょっと考えさせられる一日でした。

2008年10月18日土曜日

LOGICとMAGIC

研究室には沢山の書籍がある。

僕は研究室によったときは、なるべく一日一冊の本を読むことにしている(もちろん時間に余裕のある時だけですが)

一冊の本を読むだけの時間が持てないときでも、雑誌でも図鑑でも、ビジネス書でもとりあえずパラパラとでもいいから目を通すようにしている。最低限最初の5ページと目次位は目を通す。

なんか必要になった時に、研究室のどこにどんな内容の本があるか分かっていれば大分対応がしやすいので。


今日は、昨日抜いた二本目の親知らずの傷口を消毒に歯医者に寄った帰りに研究室に寄った。

研究室にあったUSAMIのブランディング論という本を読んだ。
以前、友人が進めていたので読んでみることにした。

ブランディングって名前だけ聞いているとよくわからなかった部分が多かったのだけど、この本はずいぶんとわかりやすく書いてあった。

全ページで100にも満たないうえ、図解入りでわかりやすい。

難しいことを簡単にわかりやすく教えられる人は本当に尊敬してしまう。

その中のある一部分が非常に気に入った。




ここまでが戦略と言われるLOGICの段階。これ以降はクリエイティヴの段階MAGICとなる。



この本では実際にものを作っていく人たちのことを”クリエイティヴな人たち”と言っている。


その中には当然、デザイナーも含まれている。

ロジックからマジックへ。

なかなか洒落た言い回しで一気に著者の宇佐美さんの事が好きになってしまった。

学校という場。

先日、隣の研究室のkazukiさんと話していた時にデザインの領域という話になりました。

ここでいう、デザインの領域とは、その人の持つバックボーンとでもいいましょうか。その人の経験してきたこと、体験してきたこと、知識、知恵、などデザインに反映されるであろう要素の集合体とでも言ったら理解してもらえるでしょうか。

その領域が小さければデザインの幅も小さく、大きければデザインの幅も広がる可能性があります。

それはあくまで可能性で、その幅を目一杯広げて有効活用するには技術や訓練がいるからです。

それを僕たちは大学や専門学校で学んでいるのだと僕は思っています。



エリオット・ノイスが大切なのは心のクオリティだと言っていたと10月号のAXISでゴードン・ブルース氏が言っていました。幅広い経験があればあるほど心は幅広くなるのだそうです。

ここではゴードン・ブルースは「情報は便利ですが、実践を伴った情報は叡智となる」と述べています。

これは以前、情報の再認識ヴィジョンを持つというエントリーで自分が言いたかったことで、

それをする時期がおそらくは今であり、それを体験できるのがおそらくは学校というものだと思います。

勉強や経験は社会に出てからもできると思います。むしろ社会に出てからのほうが多いかもしれません。

でも、時間をかけて、何かあったら質問できる人が身近にいて、あわよくば実践の機会が与えられる。学ぶための専門の場なのですから。


そんな場所で僕たちは、心のクオリティを日々磨いていくのだと思うのです。
どう磨くかは個人次第。

そういう場所が学校なのだと僕は思います。


話は少し変わりますが、外部の方に研究室におこし頂くとよく、

「君たちは本当に恵まれているね」と言われます。


僕自身、今の研究室は本当に贅沢な場だと実感しています。
著名な方にきていただいてお話を聞く機会をいただいたり、外との交流の場をもらったり、実践の機会をいただいたり、書物や資料も多く、環境を整えてもらっている。おまけにコーヒーと紅茶は飲み放題 笑 

なんて最高な環境でしょうか。

教授の理解もあり、隣の研究室とは仲良くしてもらっているし、ロジカルなことや感性的なことを親切に教えてもらえる。


でも、環境が整っていようとそこにいる人が動かなければ意味がない。

ここでは僕たち生徒次第であると思います。

自分のいる環境の贅沢さにいかに気づけるか。
自分の今いる環境にいかに気づけるか。

それこそが多分、学校という中で生徒が動き始めるためのキーポイントの一つな気がします。

僕自身、環境を用意してもらっている以上、すこしでも成長していきたいなと思うこの頃です。

2008年10月15日水曜日

スイカに塩をふる。

スイカに塩をふって食べるのは、スイカ本来の甘みを引き立たせるためにかけるのだそうです。

トマトも同様で、日本のトマトはとても甘いので、塩をかけます。

これらは素材を生かすために生まれてきたものです。

舞台やドラマでもそうですが、名脇役がいるからこそ主役が引き立ちます。


まぁ、なんでいきなりそんな話をしたかというと、最近思うことがあるからです。

それはペルソナというものをどう生かしていくかというものです。

これだけでは少し語弊があると思うのですが、(別にペルソナありきな話をするわけではないのですが)


うちの研究室ではペルソナ手法をよく使います。卒業研究にも使います。
ペルソナはあくまで手法であって、ペルソナを作ることがメインになってしまっては本末転倒です。

以前、浅野先生からアドバイスをいただいたのですが、ひとつの手法だけを重点的に使うことで偏りができてしまうので、いくつかの方向からアプローチを行うことが大切であるということを教えていただきました。

インタビューを行ってペルソナを作る(定性的なデータ)、

アンケートをとる(定量的なデータ)、

あと観察。

たとえばこれらのものをうまく併用し、時には手法自体を組み合わせてやることで、デザインの幅というのはもっと広がるきがしました。


定性的なデータを生かすには、定量的なデータが必要になるときも多い。逆もまた然りといった感じでしょうか。


その話をきいたときにすごく納得してしまって、ペルソナを作ると視野がすごく狭くなるときあり、それを客観視するためにほかの手法や方法を用いてアプローチするというのはとても新鮮でした。

スイカに塩をふるかのように、ひと工夫くわえることにより、ペルソナを生かしてやる。

そういう考え方が重要だなと思いました。

トヨタUD ワークショップ 3

本日はお台場にてトヨタUDのワークショップ。

具体的なデザイン提案を見せるはずだったのだが、多くのチームがデザイン提案をする前の段階でアイデアスケッチを見せていた。もう最終プレゼンまで一か月ない。

また、プロトタイプを作っているチームは、卒業制作と兼ねていた某美術系大学だけだった。

前回のエントリーを書いているときも思ったのだけど、なんでユニバーサルデザインのワークショップなのにプロトタイプをつくらないのだろうか。ものをつくって、検証、評価を繰り返して初めて使いやすいものになると思うんですが。

結局、運営側が作れといっていないから作らないだけなのかもしれないですね。

でも、やれと言われてないのでやらない。

というのは、

「だって言わなかったじゃないですか」と上司に逆切れする新入社員のようなものだと僕は感じます。


結局UDを謳っているのに、運営側が言わないからやらないというのは、このワークショップをUDを学ぶ場所としてではなく、コンペティションとしてしかみていないのではないかとさえ思ってしまいます。

自分が作ったもので、対象とするユーザーとそれを取り巻く環境がどうかわるのか。
そういったことに意識がいっていないのではないかなと思いました。
(たぶん、ユーザー像を立てても本当に使われるというシーンをリアリティをもって思い描いていないのかな)

プロトタイプをつくらないということは、自分たちが作ったものが本当に思い描いた通りのものになっているのか、使いやすいのかを検証する習慣がないということにつながっていくのではないでしょうか。


まぁ、こんな偉そうにいってますけど、かくいう自分も去年のはじめまではそんなこと考えもしなかったですが(むしろモックづくりが一番苦手でした)、いまじゃ普通にプロトタイプを作るようになっていて人間変われば変わるものですね。

2008年10月13日月曜日

工作の時間です。


本日はUDワークショップが近いので、我らがチーム「TOYCAST」のミーティングでした。

僕たちが取り組んでいるのはベビーカーで、ベビーカーとは呼ばず(赤ちゃんが運転しているわけではないし)育児モビリティとして、取り組んできました。

14日には具体的なデザイン提案を発表するのですが、そのためのフィールドワークと、ワークモデルの製作を本日しました。

フィールドワークに街へ出かけます。

今回は、インタビューで協力者の方が行っていた

「ショッピングモールが一番居心地が良い。育児中の母親にやさしい」

という言葉をもとに観察にでかけました。(今回で、6回目ですが毎回いろんな発見があります)

と、いきたいところですがショッピングモールの中のラーメン屋でお昼にすることに。

なにはなくともエネルギー補給!!

熊本ラーメンを堪能しました。

フィールドワークを終えて、研究室へ帰還。

売り場でもらってきた「お客様用段ボール」でプロトタイプを作ります。




だれもいなくなった部屋でもくもくと作業を続けます。いつも散らかすので、最後の掃除機は必須。
来たときよりもキレイにというところは小学校の遠足と同じ。












足に簡易的に自在のキャスターを装着。「高さあってる?」的な場面。






と、ここまで作ってみて思ったのが、今回のワークショップにプロトタイプを作っての検証が入っていないということでした。いつもの癖で、簡易的にでもプロトタイプをつくっているのですが、ほかの参加しているチームたちはあまりプロトタイプをつくらないでいるようです(前回までの話ですが)

UDのワークショップなのに、プロトタイプをつくらないで、絵だけで評価をするということに疑問をもちました。

確かに、今回のワークショップ(というなのコンペ)で最優秀賞になればT社がモックを作ってくれると言っているのですが、UDって名前が付いている以上そうもいかないんじゃ……。

今、見えてないだけでこれからみんな作っていくのかな。

そうあると信じてみます。

2008年10月12日日曜日

環境は整っているのに……。


■会期:2008年10月11・12・13日 3日間開催
11日(土)    10:00~18:00
12日(日)    10:00~18:00
13日(月・祝)  10:00~17:00
■会場:パシフィコ横浜 展示ホール 及アネックスホール
■主催:ROBO_JAPAN 2008 実行委員会
■詳細:http://www.robo-japan.jp/robo/

パシフィコ横浜で行われているロボジャパン2008に千葉工業大学の未来ロボティクス学科が出展しています。今回、自分たちはこのブースのデザインを担当させていただくことになりました。

ロボットサッカーのワールドカップで三位入賞した
ヒューマノイドロボット CIT Brains

小型かつ軽量で人を乗せての歩行を可能にした
搭乗型ロボット ハイペリオン4

アゲハ蝶とほぼ同サイズで、蝶の飛行を再現した
小型はばたきロボット


上記した三体の個性的なロボットを展示するということだったので比較的シンプルなデザインとなりました。
依頼されたときに言われたのが、「ロボットをより身近に感じるようなものにしてほしい」というものだったので、全体的にコミカルに楽しげな感じしようということになりました。

実際の会場への搬入は自分は別件に参加していたので立ち会えなかったのですが、プレス発表前に一度顔を出すと直前まで作業をしていて、会場作りに参加することになりました。

自分が担当したものが形になるのを見るとまた違った感覚を受けますね。
企画、発注、製作、他学科の先生方とのやり取りなど、普段デザイン科という枠の中でしか活動していなかったのでとても勉強になりました。

搬入と展示が済んでしまえばあとは、僕たちはお役御免となります。裏方は去るのみです。

こういった部分も普段の勉強とは違うところですね。


閑話休題。



常々思っているのですが、千葉工業大学にはものづくりをする上で必要な人材がたくさんいると思っています。

デザイン科、建築学科、機械サイエンス学科、情報工学科、電気電子情報工学科、生命環境学科プロジェクトマネジメント学科、未来ロボティクス学科。これ以上にもまだ学科があるのですが、

デザイン、プロジェクトマネジメント、開発、運営とものづくりに関与できる人間が多くいます。

しかし、この学科はそれぞれ孤立して動いており、デザイン科の生徒の間でももったいないと言ってきたのです。

この学科間がうまいことコラボレーションしていけばもっともっと面白くなるし、新しいものが生まれそうなのに。

環境は整っているのに、学科間のコミュニケーションがないために何も生まれない。

ここをどうにかしていこうと現在考え中です。

ゆくゆくは提案までもっていきたいものです。


そんな話をしている矢先に入ったのがこの未来ロボティクス学科と、千葉工大の中にある未来ロボット技術センター(以下、furo)との共同プロジェクトでした。プロジェクトというと大げさなのかもしれないのですが、デザイン科とほかの学科との初めてのコラボレーションであると思います。


こういった例がこのあともずっと続いていけばいいなと思う次第です。


学校というのはその大体の場合が閉鎖的なもので、もっと外と交流を持つべきだし、そこから生まれるコラボレーションもあると思います。

それと同様に、中の部分でも交流とコラボレーションは必要で、それが結果的に大学にとってのメリットにもなると思います。

デザインと開発と運営までいるということは、完成度の高い実装プロトタイプまで製作可能ということです。それを持って外部の企業さん(千葉の中小企業など)への提案もできるのではないでしょうか。

千葉工大はもっともっとものづくりの盛んな大学へと変わりうる要素があるのに、そうなっていない。

とてももったいないことだと思います。

何かいいアイデアがあればアドバイスをください。


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smile experience ROBO_JAPAN2008の準備

2008年10月9日木曜日

黒川雅之さんの講演

千葉工大では毎年、この時期になりますと週一回のペースで外部からデザイナーの方をよんで講義を聞く特別講義という名前の授業があります。


今回は黒川雅之さんにおこし頂いて、デザインとは何かということを話していただきました。


中でも印象に残っている話が、



西洋人は形のデザインにこだわり、日本人は素材のデザインにこだわるという話でした。


その話を聞いて思ったのが、日本の文化が閉鎖的な空間での発展をしてきたからなのではないかと思いました。

つまり、村文化とでもいうのでしょうか。国土面積の多くが山であり、その間に集落ができてくるわけですが、多くのことがその村の中で完結してしまいます。デザインしかり、流通しかりです。

のちに街道が整備され、それぞれの集落の間で流通が始まると外からの刺激が入ってきます。
やがて日本全土に道ができ、集落ごとの交流が始まってもちゃんとした国家間とのやり取りがないまま、島国の特性上、自分たちの生活領域の中で完結した文化が育っていったのではないでしょうか。

陸続きでないということは、外からの侵略を受けない、他国との戦争をしない。それはつまり文化間の交流や、刺激が日本の中に入ってこなかったということなのだと思いました。

黒川さんは着物と洋服の違いを例に挙げていましたが、おそらく日本人にとって伝統工芸や民芸品の類、反物などはアノニマスデザインと呼ばれるおおくの製品がそうであるように、何世代というときをへて、人々の生活の中で洗練されていき最終的に普遍的な形へと変化していったのかもしれません。

そうしたときに他国からの刺激、つまり比較対象がないときに、昔の日本文化の中でそれ以上の発展をする必要がなくなってしまい最終的に、バリエーションを増やすような形で素材を重視したデザインへと進化の過程(といってしまっていいかはわかりませんが)は変わっていったのだと思います。

もちろんほかにも八百万の神に代表されるようなアニミズム的感覚を持つに至った自然との共存性のようなものがあったのかもしれません。

ここらへんに関しては特になにか文献を出して確認したことではなく、講義の最中に考えた思いつきなので適当に聞き流してください。

最終的に黒川さんは宗教を例に挙げてその文化の違いを話してくださったのですが、学生の一部にとっては熱狂的な仏教徒と受け取った人もいるようです。

宗教という観念、そのなかでも教義と言われるような宗教上のルールや、絶対的な正義感を持たない日本人にとって宗教という単語が付くだけで一気にフィルターが掛かってしまうのはよくある話です。

逆を行ってしまえば、宗教のグローバルスタンダードであるキリスト教を国の宗教とする世界の多くの人たちから見れば日本人は宗教をもたないなんて気味が悪いといわれます。

ネガティブの中にポジティブを見つける。

侘寂の世界観であったり、死の中に美徳をみつけるように、自己犠牲の精神や耐え忍ぶことが美徳であるといわれる日本人は本当にどくとくな習慣や文化、感性をもっているなと感じました。

高校の時に演じた「天皇と接吻」という演劇の中で「日本人は精神的なマゾヒストである」というセリフがあったのですが、いいえて妙というか、半分くらいはこのセリフでなっとくしてしまう感じがします。

最近エスノグラフィーって言葉をよく耳にしますが、まず日本人について考えていこうと思います。



以下、その時のメモ(本当に)



2008年10月8日水曜日

クリエイティビティの行方。

最近、卒業研究の中間成果発表などでなかなか時間が取れなかったのですが、今日でやっと一段落です。

最近、感じたことを少し書こうかと思います。


それは発表されないアイデアにどれほどの価値があるのだろうかということです。

例えばタイムリーなものでいえば、うちの学科は工業系のデザイン科という少し変わったポジションなので、卒業制作や卒業論文でなく基本的には卒業研究という名目で四年次の卒業資格を得ることになります。

その最終成果物は、なにかものとして成果物をつくるか論文を書くか、またはその両方かになります(大体の生徒が両方を選択します)

今の一年生は違うのですが、自分たちの台は学科内5コースあり、それぞれ様々な特色をもって活動しています。

工業系のデザイン科ということで、そういった色も濃く今もなお実験や検証を重点的にする人も多いのです。

そういった人たちはどちらかというと研究者としての人で、最終成果物が論文のみという人も多いです。

もちろん、そういったことがとても大切なことも理解していますし、必要なことだと思うのですが、研究者という職業柄なのか研究した結果、

「で、どうなるの?」

という部分が考えられていない部分が多い気がします。

最近、いろんな研究者の人とお話しする機会が多かったのですが、大体の方が、自分のやりたいことに後付けで社会的な意味を見出そうとしていました。

大人の方でさえそうなのに、まして学生の論文にそういったことがきちんと考えられている人がすくないです。

以前、情報デザインフォーラムで、多摩美の吉橋先生にIGはその情報でなにを伝えたいのかがポイントといっていましたが、それってほとんどすべてのことにつながる気がするんです。

因果律ではないですが、原因があって結果があるというのと同じですよね。

自分のやった研究の成果が、社会や人に対してどうかかわって、どうやって活用されるのか。

自分の行った行動がどんな風に、誰を、どんな状況で幸せにするのか。

それをするためにどうしたらいいのかということだと思うのです。

研究をするだけして、外に出さなかったら意味がないと思います。

このことに関して、「研究者には研究者のクリエイティビティがある」ということを言われたことがあるのですが。そのクリエイティビティもアウトプットして、ひとに評価されて初めて生まれるものな気がしてなりません。

以前のエントリーでヴィジョンを持つでも書いたことなのですが、結局のところ自分がどのように社会にかかわっていくことなのかを意識できていないことがまずいんじゃないかと思います。

自己満足でいいのなら、デザイナーである必要性はなくなってくるのではと。


後付けですらそういったことが考えられていないということはつまり自分が社会にかかわっていくことを想定していないことだと思うのです。


クリエイティビティって、アウトプットして、ひとの眼に触れ、評価をうけて初めて成り立つのではないかと思いました。

スケッチ集中講座

6日はSIIの久米さんに来ていただいてアイデアスケッチの集中講座がありました。


本当は三年生の情報デザイン2の一貫として行われるプログラムなのですが、担当教員が山崎先生ということもあり研究室のメンバー数人でまぎれて参加させてもらいました。


スケッチのお題は「プロジェクター内臓携帯電話のエクステリア、もしくは使用シーン」

上記の内容で、一時間以内に五枚のスケッチを描いてプレゼンテーションするというプログラムです。


自分のスケッチを数枚。

絵がへたくそな自分のスケッチはこんな感じ。



プロジェクターとかレイザーポインター、懐中電灯でライトセイバーごっこ。そんな感じで携帯でライトセイバー!!結構ふざけた内容です。何よりふざけているのがライトセイバーの綴りか明らかに間違っていること。正しくはlihgtsaberである。rightsaverでは直訳して「右を守る人」なんじゃそりゃ。




携帯電話にモールス信号とかSOSのアプリケーションとかあらかじめ入ってたら遭難した時や、災害時にけっこうやくだつんじゃないかと書いてみたものがこれ。
言わずもがなライトの綴りが間違っている。

「右舷前方に遭難信号発見!!」って感じでしょうか。

でも、右手で持ってるし、ぎりぎりセーフかもしれないと開き直り。

右手専用の遭難信号つき携帯電話という後付け設定をおもいついだけど、口に出すのも憚られたのでただひたすらみんながそこに気付かないのを願うばかりでした。


その後の、プレゼンテーションでは基本的に挙手制で自発的に参加しなければ発表の場を得られない。

三年生は基本的に手を挙げず、参加していた四年生ばかりが発表をしていたので四年生はそこで終了。
途中から先生たちの指名で三年生の発表へと移っていった。

今の三年生はスケッチを結構かけるようなので恥ずかしがらずに出ていくべきだなと感じました。


外に出されないアイデアはどんなに素晴らしいものであってもその価値は半減してしまうのではないでしょうか。


以下、その時のメモ

・デザインをする上で過去を学ぶことが大切

・デザインにとって観察というのがとても大切

・発想をかなえるために技術を知る。

・アイデアは遠い未来でなく、案外自分の身近なところに落ちている。そこに気付けるかどうかがカギ。

・スケッチとは自分のデザインの履歴であり、ポートフォリオを見る時も最終アウトプットよりもスケッチを見る人が多い、

・壁に張った時に映える描き方を意識する。


普段、何気なく書いているスケッチも意識を変えるだけでこんなにも変わるのかという貴重な体験をさせてもらいました。

2008年10月6日月曜日

手段と目的。

長らくあいてしまいました。

土曜日はデザイン科の卒業研究の中間発表ということで全研究室の成果発表会となりました。

発表会後は、打ち上げに参加したのですが、お酒の席とは怖いものでいろんな人の思惑がポロリと出てきて正直、中間発表よりもそっちのほうがショックでかかったです。

いろんな研究室の人が集まっての打ち上げだったので、それぞれのスタンスがあって刺激があり、ショックなことを言われと、精神的にへこむほうが大きかった。

そんな席で言われたのが

「ペルソナ作ってればいいって思ってる気がする」

うちの研究室ってそんな風に思われていたんですか。

手段と目的を混同するのは、デザインをしている本人だけでなく、まわりから見る人間にもその可能性はあるわけですね。

よく企業でペルソナを導入しようとしても、ほかの部門の人間の理解を得られないというのがありますが
こんな気分なんでしょうか。

ペルソナって手段であってそれを作ってればいいなんてうちの研究室の人間は思ってないのですが、外から見たらそうなるのかな。

ペルソナを他人に理解してもらうために、理解を得るための努力はするべきだなと思いました。

打ち上げでなぜか一人へこんでいました。

2008年10月1日水曜日

Blogとスケッチ。

そういえばブログを始めてから一ヵ月近くたちます。

ブログを始めてから自分の中で明らかに以前と考え方が変わっていると感じています。

その原因としてよく挙げられるのが


・考えをいったん自分の外にだし、再構築してアウトプットするから

・人に教えるために分かりやすく整理するから

というようなものです。

そういった理由をふまえた上で、じゃぁなぜそれが理解につながるのだろうと考えてみると、それはアウトプットの先に、自分がいるからだと僕は感じています。

ブログを書くときに、ブログを読んで下さる読者を意識して書きます。この書くという行為の先には一番最初の読者である自分がいると感じるのです。

以前まで僕は、自分の内面をアウトプットするという意味でアイデアスケッチとブログは同じようなものなのではないのかと考えていたのですが、アイデアスケッチとブログでは全然違うものだと分かりました。




アイデアスケッチが自分の中の抽象的なイメージをとりあえずアウトプットしてみて試作検討をするという行為なのだとしたら、

ブログに記事を書くという行為は、自分の中の認識や知識を整理し、より簡潔にまとめる行為だと思います。

この行為はディスカッションに似ていて、自分が何がわかっていないのか、また得られた知識に対しての確認しあうの意味を持つのではないでしょうか。

また、知識を簡潔にまとめることにより、自分が今まで理解に到達していなかった部分に気づいたり、学んだことが、ほかのどの部分につながるのかというようなことも見えてくるように思います。


ブログの記事を書くということは、自分自身との対話に近いものだと少なからず感じるのです。