2008年10月22日水曜日

カレーとコンソメの毛布。



今日は久しぶりに新宿で友人と会ってきた。

こっちに越してきていたのは知っていたのだが、長らくあっていなかったのでつもる話も多い。

友人のアパートに行くと、いくつかのお菓子を開けてくれた。

あとからもうすこし人がくる予定だったので、準備を手伝っていると、

某製菓会社のコンソメパンチ味のポテトチップスを開けた時に、なぜか、そのニオイを嗅いで、

まるで押入れにずっとしまってあった毛布のようだなと感じた。

なぜ、急にそんなことを思ったのか不思議だったのだが、その久しぶりにあった友人が昔、

ずっと押入れにしまっておいた毛布はカレーせんべいのニオイがするといっていたことを思い出した。


冷やかし半分にそのことを相手に話してみると、そんなこと覚えていないというし、コンソメの香りを毛布のニオイという自分のことを変だと注意された。


なんでいきなりこんな話をしたかと言いますと、人間ってよくも悪くも変わるよねという話がしたかったのです。

もちろん、たかだか22年しか生きていない自分なんかよりも、人生経験豊富なかたは世の中には沢山いますし、きっとこのブログをいつも見てくださっている読者(そんな人がいるかは甚だ疑問ですが、いると仮定して)の方の中にはそういった人もいるとは思います。(インターネットを利用していて、なおかつ情報デザイン系のブログを読んでくださる人というと必然的にも、割合的にもきっとそうなってくるとおもいますが)

ここは、若いのがなんかいってるなぁ位に聞き流していもらえれば幸いです。


話を戻します。


人の思考や嗜好は年をとるにつれて変化していきます。

それは子供のころ嫌いだったピーマンやミョウガを、大人になると好むようになるのと似ています。

聞いた話によれば、それは人が、日々の生活を経ていく中で、経験し、体験し、無意識の上で学習しているからだそうです。

以前食べたこれと似ているな、だからこれは美味しいという信号を脳に出そう。

そんなやり取りが行われているらしいです。

きっとそれは小さい頃に自分たちが感じたものとは全く別でもっとオートマチックな作業なんだろうと思います。


僕には六つ離れた兄と、四つ離れた姉がいました。(というかいます。)
ある時、母親からおやつに出されたスナック菓子があったのですが、僕はそのお菓子がとても変な味に感じられて、自分の分を姉や兄にあげてしまった(半ばとられたといってもいい。)ことがあります。

兄弟のいる家ではどこも一緒だとは思うのですが。お菓子の分配をいかに公平にできるかが重要なのです。

ケーキを切ろうものなら定規を取り出して、お兄ちゃんのほうが一センチほど大きいなんてことを言い出す始末。

無論、我が家もそんな家庭の一つでした。

そんなお菓子争奪戦を日夜繰り返していた幼少時の僕が、なぜ兄や姉に素直にお菓子を上げてしまったのか。

それは、そのお菓子に入っていた人工の香料が、当時の僕の体に受け付けなかったからです。

そんな、僕も今では保存料たっぷりのコンビニ弁当をガリガリと食べ、体に悪いことし放題です。

きっと大人になっていく上で、心も体も社会や生活に適応していったのだと思います。



僕の好きな作家さんで森博嗣という元名古屋大の助教授だったミステリの作家さんがいるのですが、その人の小説の中にこんな文があったのを思い出しました。



「鳥類と哺乳類の分類から漏れたカモノハシとか、植物と動物の境目にいるミドリムシとか、彼らは、人間の考え出した分類を知らないわけだよ。だから、全然 影響がない。カモノハシが、自分の位置するところが中途半端で気持ちが悪いから、もうちょっと鳥っぽくなろうなんて思わないでしょう?でもね、人間は、自 分たちが作った分類システムを知っているわけ。そもそも、そのシステムこそが文化とか社会のバックグラウンドなんだから、笑う、怒る、泣くとかいうパター ンは、子供が成長する過程で教え込まれるし、本来の複雑さは、成長とともに、必然的にコントロールされて単純化へ向かう。赤ちゃんのときには、泣くと笑う の中間とか、笑うと怒るの中間の感情があったのに、いつの間にか、別々の物に離散化されて個別化される。わかる?大人になるほど、どんどん単純へ向かうん だよ」





ここでは、人間が決めた社会の分類に適合するために大人になるほど単純になると話しています。

ようはその単純化とは、社会に適合して生きていく上で、テンプレートとしてのルールに自らを適合させていった形なのではないかということです。

その過程で、個人の主観や個性といったものがどんどんと無意識化のうちに失われていく。


小さい頃はもっと複雑で、笑う感情と悲しい感情の中間なんていうものが存在していたのに、大人になるにつれてそういったものがパターン化していき消失していくのだそうです。


もう大分昔のものことになりますが、保育園の友達が、泣きながら笑っていたことが確かにあったなと思います。


大人になってしまえば泣きながら笑うという行為をすることが難しい。

そういった意味で子供のほうが優れている、柔軟であるといえるでしょう。

先ほどの味覚の話も、カレーせんべいの毛布の話も、同様です。

僕たちが大人になって、子供たちの描く絵を斬新だと思うのは、彼らの絵が個性的だからにほかなりません。

複雑な表現が可能なのだと思います。(そのひとつの例が既成概念にとらわれない)

それは僕たちがなくしていったものの一つなのかもと思いました。


僕たちが幼いころに感じたドキドキ感、わくわく感というのは、まだ単純化されるまえの子供だけの複雑なセンサが働いていたかで、たしかに僕たちは幼いころそういったドキドキやわくわくを経験していたのではないかと思ってしまいます。




なんて言うのは、夢見がちですかね 笑


いずれにせよ、ここでいう子供たちのもつような敏感なセンサーってものをもっていないなと思うものです。

人を幸せにしようとか、ハッピーな体験を考えようというときに、実体験がなければその魅力を十分に伝えられるとは思えません。すくなからず僕はそうです。

デザイナーを目指す上で、そういった些細な生活の中に敏感なセンサー(レーダー?)を持つというのは必要であると思います。

めずらしく、小難しいことを言ってしまった 笑


今日のエントリーこそ、まさに馬鹿がない知恵しぼって考えてみた感じでこのブログにはあっているのかもしれません。

たまには真面目に頭を使ってみました。