今回は黒川雅之さんにおこし頂いて、デザインとは何かということを話していただきました。
中でも印象に残っている話が、
西洋人は形のデザインにこだわり、日本人は素材のデザインにこだわるという話でした。
その話を聞いて思ったのが、日本の文化が閉鎖的な空間での発展をしてきたからなのではないかと思いました。
つまり、村文化とでもいうのでしょうか。国土面積の多くが山であり、その間に集落ができてくるわけですが、多くのことがその村の中で完結してしまいます。デザインしかり、流通しかりです。
のちに街道が整備され、それぞれの集落の間で流通が始まると外からの刺激が入ってきます。
やがて日本全土に道ができ、集落ごとの交流が始まってもちゃんとした国家間とのやり取りがないまま、島国の特性上、自分たちの生活領域の中で完結した文化が育っていったのではないでしょうか。
陸続きでないということは、外からの侵略を受けない、他国との戦争をしない。それはつまり文化間の交流や、刺激が日本の中に入ってこなかったということなのだと思いました。
黒川さんは着物と洋服の違いを例に挙げていましたが、おそらく日本人にとって伝統工芸や民芸品の類、反物などはアノニマスデザインと呼ばれるおおくの製品がそうであるように、何世代というときをへて、人々の生活の中で洗練されていき最終的に普遍的な形へと変化していったのかもしれません。
そうしたときに他国からの刺激、つまり比較対象がないときに、昔の日本文化の中でそれ以上の発展をする必要がなくなってしまい最終的に、バリエーションを増やすような形で素材を重視したデザインへと進化の過程(といってしまっていいかはわかりませんが)は変わっていったのだと思います。
もちろんほかにも八百万の神に代表されるようなアニミズム的感覚を持つに至った自然との共存性のようなものがあったのかもしれません。
ここらへんに関しては特になにか文献を出して確認したことではなく、講義の最中に考えた思いつきなので適当に聞き流してください。
最終的に黒川さんは宗教を例に挙げてその文化の違いを話してくださったのですが、学生の一部にとっては熱狂的な仏教徒と受け取った人もいるようです。
宗教という観念、そのなかでも教義と言われるような宗教上のルールや、絶対的な正義感を持たない日本人にとって宗教という単語が付くだけで一気にフィルターが掛かってしまうのはよくある話です。
逆を行ってしまえば、宗教のグローバルスタンダードであるキリスト教を国の宗教とする世界の多くの人たちから見れば日本人は宗教をもたないなんて気味が悪いといわれます。
ネガティブの中にポジティブを見つける。
侘寂の世界観であったり、死の中に美徳をみつけるように、自己犠牲の精神や耐え忍ぶことが美徳であるといわれる日本人は本当にどくとくな習慣や文化、感性をもっているなと感じました。
高校の時に演じた「天皇と接吻」という演劇の中で「日本人は精神的なマゾヒストである」というセリフがあったのですが、いいえて妙というか、半分くらいはこのセリフでなっとくしてしまう感じがします。
最近エスノグラフィーって言葉をよく耳にしますが、まず日本人について考えていこうと思います。
以下、その時のメモ(本当に)
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