2008年10月8日水曜日

クリエイティビティの行方。

最近、卒業研究の中間成果発表などでなかなか時間が取れなかったのですが、今日でやっと一段落です。

最近、感じたことを少し書こうかと思います。


それは発表されないアイデアにどれほどの価値があるのだろうかということです。

例えばタイムリーなものでいえば、うちの学科は工業系のデザイン科という少し変わったポジションなので、卒業制作や卒業論文でなく基本的には卒業研究という名目で四年次の卒業資格を得ることになります。

その最終成果物は、なにかものとして成果物をつくるか論文を書くか、またはその両方かになります(大体の生徒が両方を選択します)

今の一年生は違うのですが、自分たちの台は学科内5コースあり、それぞれ様々な特色をもって活動しています。

工業系のデザイン科ということで、そういった色も濃く今もなお実験や検証を重点的にする人も多いのです。

そういった人たちはどちらかというと研究者としての人で、最終成果物が論文のみという人も多いです。

もちろん、そういったことがとても大切なことも理解していますし、必要なことだと思うのですが、研究者という職業柄なのか研究した結果、

「で、どうなるの?」

という部分が考えられていない部分が多い気がします。

最近、いろんな研究者の人とお話しする機会が多かったのですが、大体の方が、自分のやりたいことに後付けで社会的な意味を見出そうとしていました。

大人の方でさえそうなのに、まして学生の論文にそういったことがきちんと考えられている人がすくないです。

以前、情報デザインフォーラムで、多摩美の吉橋先生にIGはその情報でなにを伝えたいのかがポイントといっていましたが、それってほとんどすべてのことにつながる気がするんです。

因果律ではないですが、原因があって結果があるというのと同じですよね。

自分のやった研究の成果が、社会や人に対してどうかかわって、どうやって活用されるのか。

自分の行った行動がどんな風に、誰を、どんな状況で幸せにするのか。

それをするためにどうしたらいいのかということだと思うのです。

研究をするだけして、外に出さなかったら意味がないと思います。

このことに関して、「研究者には研究者のクリエイティビティがある」ということを言われたことがあるのですが。そのクリエイティビティもアウトプットして、ひとに評価されて初めて生まれるものな気がしてなりません。

以前のエントリーでヴィジョンを持つでも書いたことなのですが、結局のところ自分がどのように社会にかかわっていくことなのかを意識できていないことがまずいんじゃないかと思います。

自己満足でいいのなら、デザイナーである必要性はなくなってくるのではと。


後付けですらそういったことが考えられていないということはつまり自分が社会にかかわっていくことを想定していないことだと思うのです。


クリエイティビティって、アウトプットして、ひとの眼に触れ、評価をうけて初めて成り立つのではないかと思いました。