2008年9月19日金曜日

当り前のことに気が付く。

ここ最近のエントリー記事で、僕は知識だけでなく体験や経験をもとにした実感が伴わなければ理解したことにはならないのではないだろうかというようなことを書いているのですが。

なんだかんだとうだうだ書いているにも関わらず、いっていることは聞いてみれば「なんだ当たり前のことじゃないか」と思うようなことなのだと思います。

ただ、最近常々思うのは今まで22年間生きてきた中で、得てきた知識というのはあまりにもその物事の表層の部分だけなのではないかと思うのです。


当り前の事こそ説明に困りませんか?

小さい子供の「なんで?」という質問の連続に言葉が出てこないとき、自分は全然物事を理解していないんだと痛感させられました。


「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」という三浦梅園という江戸時代の思想家の方が残した言葉があるのですが、非日常的なことや、突飛なことにおどろくよりも、日常の当たり前の中にもっと驚くべきものがあるという意味でつかわれたりします。

僕が考えていることはまさにそういうことなのではないかと思います。



別に心理を探究する哲学者を目指しているわけではないのですが、たとえば自分がデザイン活動をしていく上で必要になる手法や行為の基本的なロジックは理解しておかなければうまく活用できないと思います。

手法を勉強しました。本を読んで知識を得ました。それで手法のメソッドや知識を何の疑問も持たないまま”あたりまえ”と思ってそのまま使い、手法を使ったから正しいデザインです。とはいかないのだと思います。

インフォメーショングラフィクスはあまり得意ではないのですが、そういった思考ロジックや、日常のふるまいなど、当り前のことをあえて図しかしていくというのが大切なのではないかなと思った次第です。

あんまり文章だけのブログではつまらないと思うので、なるべく図を入れつつこれからも当たり前のことを書いていこうと思う今日この頃です。