何事に対しても、ifで考えることと言うのはえてしてネガティヴなものとして評価されます。
「もし、あの時ああしていれば」
「もし、~だったら」
いわゆる「たら、れば」という話です。
今回はそんなタラレバな話で、コペンハーゲン解釈やら、多次元世界解釈とか一見関係ありそうで、全然関係ないお話です。あの有名なシュレディンガーさんちの猫も今回はお休みです。
人にとっての使いやすさとは何だろうとたまに考えることがあります。
そもそも、使いやすさとは、その人の生活の中での行動によって生まれてくると思います。
それはずっと生きてきた中での経験知であったり、生まれ育った環境そのものの歴史としての文化や知恵や風習であったりだと思います。
そういった文化や風習の中で練磨されてきたデザインは何世代という人々の手を経て洗練されたものとなっていくわけですが、その結果をすべて手放しで喜ぶということに対していささか疑問を感じるのです。
行ってしまえば、何世代も経てデザインされてきたと言うことは、それらのプロダクトが人々の風習や文化、社会などに対して適応し、生物でいうところの進化を遂げてきたようなものなわけですが、それらの進化の過程で停滞期であったり円熟期を迎え、人々の手によって改良や適応がなされなくなって現在に至った場合において、それらの製品は本当に現代の社会、文化、風習にとって使いやすいものでるでしょうか?
もちろん、デザイン進化の停滞期、円熟期と言うものが訪れた時点で、それらの製品は人々の生活から必要とされなくなってきているということでもあるわけですので、適者生存なんていう考え方も十分適応されるのだと思います。
ブランドと一緒で、停滞記、円熟期(衰退期)は支持されるものであれば訪れないものなのだと僕は考えます。
そういったことを考えたとき、現在僕たちの生活の中で当たり前のように使われているモノたちが本当に私たちにとって使いやすいものあっただろうかと言うと必ずしもそうでないと思うわけです。
デザインされた当時と今の間に生まれる時間という決定的なギャップこそがそれらの使い辛さの原因の内の一つなのではないでしょうか。
当時はそれでよかった。しかし、今はそうではない。
そういったことが普通にある気がします。
(当時は画期的だった法律が、時代に適応した改正を行わないせいでいまや抜け道だらけであるというのに似ているかもしれないですね)
先ほどからデザインの進化という言葉を使ってきましたが、進化という言葉を使っている以上はご想像のとおり、進化の分岐点があり、それらの分岐点を調査、分析していくことで実際には辿られなかった別の形に進化したIFのデザインを導き出せるのではないかと言うのが今回の話の終着点です。
最近、大学院生の授業の中で「自分の手法を作る」というようなことをやっているようなので、前から思っていたこんなことを言ってみたり。
地域や文化に根付いたデザイン展開の手法とか面白そうだなと思ったこのごろ。
ペルソナよりももっとマクロな視点でのデザイン活用法とか。
なんかとりとめもないですが、とりあえず思ったことをメモ程度に。
実はいくつか具体的な方法も考えていて、実際に活用してみたらどうなるかちょっと楽しみ。
2008年12月13日土曜日
箸について考えてみる。
面白い話ができる人っていますよね。
ここでいう面白いってのはギャグとかそういう意味ではなく、興味深いとかそういった意味のほうです。
昨日は研究室に泊りこんで論文を書いていたんですが、その時一緒にいた研究室のメンバーと「北欧デザインと日本のデザイン」についての話になりどんどんと話がそれ、アノニマスデザインへテーマが移行し、お箸についての話になりました。
欧州では両手を使ってフォークとナイフで食事をする。
それに対し、日本では片手でそれらの役割をする。
なんでかと考えると、日本には茶碗を片手でもって食べる文化があるからじゃないか。
では、なぜ日本には茶碗を持ち上げるような形式ができたのか。
料理の器をも手に持って食べるのは世界的にマナー違反だそうですが、なんで日本はそうなったのか?
宗教だとか、政治だとかも多少はかかわってくるのだと思うのですが、まず床文化であるというのが大きい気がしました。
椅子に座らず、床で食事をするという行為には、どうしても手で持ち上げなければこぼしてしまいます。
大陸側に比べ、国土面積が狭く日本の家屋に椅子文化が根付かなかったというのもあると思います。
調べてみると、日本において、食事をする場所というものが存在しなかったので料理を置かれた場所(配膳された場所)がつまりはダイニングになるようです。
こんな風にひとつのことを突き詰めていくと、なんか歴史をたどっているようで面白いです。
調べれば調べるほど、日本て面白い歴史や文化の宝庫ですね。
こんな話に付き合ってくれる友人に感謝です。
ここでいう面白いってのはギャグとかそういう意味ではなく、興味深いとかそういった意味のほうです。
昨日は研究室に泊りこんで論文を書いていたんですが、その時一緒にいた研究室のメンバーと「北欧デザインと日本のデザイン」についての話になりどんどんと話がそれ、アノニマスデザインへテーマが移行し、お箸についての話になりました。
欧州では両手を使ってフォークとナイフで食事をする。
それに対し、日本では片手でそれらの役割をする。
なんでかと考えると、日本には茶碗を片手でもって食べる文化があるからじゃないか。
では、なぜ日本には茶碗を持ち上げるような形式ができたのか。
料理の器をも手に持って食べるのは世界的にマナー違反だそうですが、なんで日本はそうなったのか?
宗教だとか、政治だとかも多少はかかわってくるのだと思うのですが、まず床文化であるというのが大きい気がしました。
椅子に座らず、床で食事をするという行為には、どうしても手で持ち上げなければこぼしてしまいます。
大陸側に比べ、国土面積が狭く日本の家屋に椅子文化が根付かなかったというのもあると思います。
調べてみると、日本において、食事をする場所というものが存在しなかったので料理を置かれた場所(配膳された場所)がつまりはダイニングになるようです。
こんな風にひとつのことを突き詰めていくと、なんか歴史をたどっているようで面白いです。
調べれば調べるほど、日本て面白い歴史や文化の宝庫ですね。
こんな話に付き合ってくれる友人に感謝です。
2008年12月8日月曜日
条件が同じなら必ずしも同じ結果になるとは言えない。
同じ授業を受けても、成績がみんな同じになるわけではないのと一緒で、
同じ情報を得られたとしても、それを活用できるかといえばそうとも言えない。
情報デザインフォーラムの夏のワークショップのときに、コナミの小林さんが「何の根拠もなく、教えているわけでなく、とりあえず一回やってみることが大切」という話をしていたのを思い出しました。
いま、卒業論文をまとめているわけですが、そういえば今年一年たくさんいろんなことをやってきたなと思いなおし、インターフェースの作成なんかにカードソーティングなんかを活用してみようなんて思った。
たしかに、勉強会に出かけてやってみなければもったいないし、身に付かない。
そう考えると、本当にたくさん学んだし、卒業制作に生かせることだってたくさんあるじゃないか。
なんて視野が狭くなっていたんだと本当に思いなおした。
せっかく学んでもそのあともそれを使い続ける人とそうでない人の間には違う結果がでるって話。
同じ情報を得られたとしても、それを活用できるかといえばそうとも言えない。
情報デザインフォーラムの夏のワークショップのときに、コナミの小林さんが「何の根拠もなく、教えているわけでなく、とりあえず一回やってみることが大切」という話をしていたのを思い出しました。
いま、卒業論文をまとめているわけですが、そういえば今年一年たくさんいろんなことをやってきたなと思いなおし、インターフェースの作成なんかにカードソーティングなんかを活用してみようなんて思った。
たしかに、勉強会に出かけてやってみなければもったいないし、身に付かない。
そう考えると、本当にたくさん学んだし、卒業制作に生かせることだってたくさんあるじゃないか。
なんて視野が狭くなっていたんだと本当に思いなおした。
せっかく学んでもそのあともそれを使い続ける人とそうでない人の間には違う結果がでるって話。
2008年11月29日土曜日
感動とは変わること。
以前、学校という場というエントリーの中で、心のクオリティという話に触れました。
人の心(感性など)は多くの体験や経験をへてクオリティをアップしていくという話です。
もとはエリオット・ノイスが口にしていた言葉だそうですが、この単語が気に入っていてよく使っています。
自分の好きな写真家さんで、もう亡くなってしまったのですが星野道夫さんとう方がいました。
星野さんはアラスカでオーロラやそこに住む動物たちを撮り続けた方なのですが、最後は写真を撮っている最中にグリズリーに襲われて亡くなってしまいます。
ぼくが最初に購入した写真集は、秘蔵のフィルムと彼のエッセイを混ぜた追悼のためのメモリアルブックでした。この本は奥さんが監修されたようです。
その中の一説にこんな言葉があって今でもずっと印象に残っています。
星野さんはある友人とこんな会話をしたそうです
「もし、どうしようもなく見ているだけでなきたくなってしまうような夕焼けを見たときにどうやったら自分の愛する人や、家族、親しい人たちにその感動を伝えることがだろう?君ならどうする?」
「そうだな、手元にカメラがあれば写真をとるかも知れないし、絵を描く才能があったなら絵をかくかもしれない。言葉で伝えてもいいかもしれない、でもどれもその時の感動を伝えられないかもしれない」
「僕が思うに、それには自分が変わることだ。その感動を受けて自分が変わっていくことが一番人にその感動を伝えられる」
心のクオリティという単語からはこの話をいつも思い出します。
本当に、心が打ち震えるような感動にはそれだけの力があると思います。
それを糧にできたならその人の人となりににじみ出てきます。
心のクオリティはそういった感動をもとに経験知を重ね、変化を何回も重ねていくことで上がっていくのだと僕は思うのです。
また、感動とは本来、受け身ではなくもっとアクティブなものであってもいいのかなと自分は思います。
人の心(感性など)は多くの体験や経験をへてクオリティをアップしていくという話です。
もとはエリオット・ノイスが口にしていた言葉だそうですが、この単語が気に入っていてよく使っています。
自分の好きな写真家さんで、もう亡くなってしまったのですが星野道夫さんとう方がいました。
星野さんはアラスカでオーロラやそこに住む動物たちを撮り続けた方なのですが、最後は写真を撮っている最中にグリズリーに襲われて亡くなってしまいます。
ぼくが最初に購入した写真集は、秘蔵のフィルムと彼のエッセイを混ぜた追悼のためのメモリアルブックでした。この本は奥さんが監修されたようです。
その中の一説にこんな言葉があって今でもずっと印象に残っています。
星野さんはある友人とこんな会話をしたそうです
「もし、どうしようもなく見ているだけでなきたくなってしまうような夕焼けを見たときにどうやったら自分の愛する人や、家族、親しい人たちにその感動を伝えることがだろう?君ならどうする?」
「そうだな、手元にカメラがあれば写真をとるかも知れないし、絵を描く才能があったなら絵をかくかもしれない。言葉で伝えてもいいかもしれない、でもどれもその時の感動を伝えられないかもしれない」
「僕が思うに、それには自分が変わることだ。その感動を受けて自分が変わっていくことが一番人にその感動を伝えられる」
心のクオリティという単語からはこの話をいつも思い出します。
本当に、心が打ち震えるような感動にはそれだけの力があると思います。
それを糧にできたならその人の人となりににじみ出てきます。
心のクオリティはそういった感動をもとに経験知を重ね、変化を何回も重ねていくことで上がっていくのだと僕は思うのです。
また、感動とは本来、受け身ではなくもっとアクティブなものであってもいいのかなと自分は思います。
2008年11月25日火曜日
心構え。
設える(しつらえる)という言葉が好きです。
国語辞書なんかで設えという単語を検索してみると
しつらえる しつらへる 【設える】 (動ア下一)[文]ハ下二 しつら・ふ
(1)ある目的のための設備をある場所に設ける。
「広間に―・えられた祭壇」
(2)部屋の内装や設備などを飾りつける。
「王朝風に―・えられた客間」
大辞林 第二版 (三省堂)
辞書なだけに妙に簡潔ですが、ただの準備や用意だけではない気もしますね。
先日、文化祭で写真系のサークルの展示にいきました。
会場全体は結構凝ったつくりだったのですが、そこにある個人個人の写真の展示の仕方が写真を印画紙ごと直に壁に張り付けてあったりして、見せるということを意識されていないように感じました。
額に入れろとまでは言わないですが、せめて台紙に張るなり、パネルにするなりしないとちょっとあんまりにも見る側としては悲しい。
写真が好きな人たちが展示にくると思うのですが、それなのに写真を雑に扱ったり、直に地面にばらまいてあって踏まれて文句言えないような状態だったり。
もちろん、きちんと意識しているひともいたのですが、半数くらいは意識していない。
展示なのだから、見る人のことを意識するってとても重要だとおもうのですが。
そんなときに今回のこのしつらえるという言葉を思い出しました。
よく茶道の世界にその言葉は使われます。
そこで言われるしつらえとはお客さんに心地よく快適な場を提供するための準備であるといいます。
それは時に演出であり、時に掃除であったりします。
例えば、茶道というと多くの人が思い浮かべるでしょう千利休にはこんな有名な逸話があります。
夏の日に、庭の朝顔が満開になったので利休は、豊臣秀吉に
「朝顔が美しく咲いたので、お茶でも飲みにきませんか?」
と提案すると、当時、茶に熱を上げていた秀吉も、満開の朝顔を眺めながら茶を飲むのは趣があると意気揚揚と利休の茶室へと出かけることにした。
ところが、秀吉が利休のところへやってくると話に聞いていた満開の朝顔がすべて切り取られていて拍子ぬけする。
なんだ満開の朝顔はみられないのかと期待していた分がっかりして茶室に入ると、床の間には一輪だけ朝顔が生けられていたそうです。
満開にさいた朝顔を、秀吉の為にすべて切り取り一輪だけ茶室に生ける。
それをみた秀吉はえらく感心したのだとか。
別の話ではこんなものもあります。
秋ごろ、利休は茶会の前に庭先に積もった落ち葉を掃除するように弟子に申しつけた。
掃除が終わりましたと弟子がいうので見に行くと、キレイに掃かれていて地面には一枚も落ち葉がなかった。
すると利休はおもむろに掃きためた落ち葉を数枚ほどまた地面に散らして「これで掃除は終わった」と言ったそうです。
弟子はなぜ、せっかく落ち葉をはいたのにまた散らすのか問うと、
「この季節であるなら、地面に数枚の葉があったほうがより自然だからだ」と答えたそうだ。
荒れたままの庭では失礼だが、人の手が加わった痕跡がまざまざと見えていては秋の風景も興ざめであると、茶会に来る人のをもてなすためのしつらえ(演出)であったそうな。
茶道にとっての掃除とは、転じてお客さんを迎え入れるためのしつらえなのかもしれません。
茶道には露地という茶室に連なる庭があり、その景色からすでにお客さんをもてなすための演出がはじまっているといいます。
自分はデザインを学んでいるわけですが、このしつらえるという感覚はデザインする作業にすごく似ていて、同じようにデザインしたものがどの様に使われるか、どうすれば心地よい体験ができるのかを目指して作業を進めていきます。
それは時に演出であり、時に生活の知恵でもあります。
また、それを全面に押し出さす、当り前のように相手への配慮をするというのがとても大切だと思っています。
押しつけられた茶よりも、さりげなくこちらに配慮してくれて出された茶のほうがやはり心地よいし嬉しい。
UDの時も思ったのですが、さりげなく当たり前のようにユーザーへの配慮がされているというのがやはり理想なんでしょうね。
しつらえるとは、その行為の先にいる人に対する心構えのようなものなのかもしれません。
最近、茶道の歴史について調べ始めたのですが、宗教や政治も絡んでいてなかなか面白いです。
日本という国の歴史をたどる上では文化的にも、歴史的にも大切なところかもしれません。
国語辞書なんかで設えという単語を検索してみると
しつらえる しつらへる 【設える】 (動ア下一)[文]ハ下二 しつら・ふ
(1)ある目的のための設備をある場所に設ける。
「広間に―・えられた祭壇」
(2)部屋の内装や設備などを飾りつける。
「王朝風に―・えられた客間」
大辞林 第二版 (三省堂)
辞書なだけに妙に簡潔ですが、ただの準備や用意だけではない気もしますね。
先日、文化祭で写真系のサークルの展示にいきました。
会場全体は結構凝ったつくりだったのですが、そこにある個人個人の写真の展示の仕方が写真を印画紙ごと直に壁に張り付けてあったりして、見せるということを意識されていないように感じました。
額に入れろとまでは言わないですが、せめて台紙に張るなり、パネルにするなりしないとちょっとあんまりにも見る側としては悲しい。
写真が好きな人たちが展示にくると思うのですが、それなのに写真を雑に扱ったり、直に地面にばらまいてあって踏まれて文句言えないような状態だったり。
もちろん、きちんと意識しているひともいたのですが、半数くらいは意識していない。
展示なのだから、見る人のことを意識するってとても重要だとおもうのですが。
そんなときに今回のこのしつらえるという言葉を思い出しました。
よく茶道の世界にその言葉は使われます。
そこで言われるしつらえとはお客さんに心地よく快適な場を提供するための準備であるといいます。
それは時に演出であり、時に掃除であったりします。
例えば、茶道というと多くの人が思い浮かべるでしょう千利休にはこんな有名な逸話があります。
夏の日に、庭の朝顔が満開になったので利休は、豊臣秀吉に
「朝顔が美しく咲いたので、お茶でも飲みにきませんか?」
と提案すると、当時、茶に熱を上げていた秀吉も、満開の朝顔を眺めながら茶を飲むのは趣があると意気揚揚と利休の茶室へと出かけることにした。
ところが、秀吉が利休のところへやってくると話に聞いていた満開の朝顔がすべて切り取られていて拍子ぬけする。
なんだ満開の朝顔はみられないのかと期待していた分がっかりして茶室に入ると、床の間には一輪だけ朝顔が生けられていたそうです。
満開にさいた朝顔を、秀吉の為にすべて切り取り一輪だけ茶室に生ける。
それをみた秀吉はえらく感心したのだとか。
別の話ではこんなものもあります。
秋ごろ、利休は茶会の前に庭先に積もった落ち葉を掃除するように弟子に申しつけた。
掃除が終わりましたと弟子がいうので見に行くと、キレイに掃かれていて地面には一枚も落ち葉がなかった。
すると利休はおもむろに掃きためた落ち葉を数枚ほどまた地面に散らして「これで掃除は終わった」と言ったそうです。
弟子はなぜ、せっかく落ち葉をはいたのにまた散らすのか問うと、
「この季節であるなら、地面に数枚の葉があったほうがより自然だからだ」と答えたそうだ。
荒れたままの庭では失礼だが、人の手が加わった痕跡がまざまざと見えていては秋の風景も興ざめであると、茶会に来る人のをもてなすためのしつらえ(演出)であったそうな。
茶道にとっての掃除とは、転じてお客さんを迎え入れるためのしつらえなのかもしれません。
茶道には露地という茶室に連なる庭があり、その景色からすでにお客さんをもてなすための演出がはじまっているといいます。
自分はデザインを学んでいるわけですが、このしつらえるという感覚はデザインする作業にすごく似ていて、同じようにデザインしたものがどの様に使われるか、どうすれば心地よい体験ができるのかを目指して作業を進めていきます。
それは時に演出であり、時に生活の知恵でもあります。
また、それを全面に押し出さす、当り前のように相手への配慮をするというのがとても大切だと思っています。
押しつけられた茶よりも、さりげなくこちらに配慮してくれて出された茶のほうがやはり心地よいし嬉しい。
UDの時も思ったのですが、さりげなく当たり前のようにユーザーへの配慮がされているというのがやはり理想なんでしょうね。
しつらえるとは、その行為の先にいる人に対する心構えのようなものなのかもしれません。
最近、茶道の歴史について調べ始めたのですが、宗教や政治も絡んでいてなかなか面白いです。
日本という国の歴史をたどる上では文化的にも、歴史的にも大切なところかもしれません。
2008年10月22日水曜日
カレーとコンソメの毛布。

今日は久しぶりに新宿で友人と会ってきた。
こっちに越してきていたのは知っていたのだが、長らくあっていなかったのでつもる話も多い。
友人のアパートに行くと、いくつかのお菓子を開けてくれた。
あとからもうすこし人がくる予定だったので、準備を手伝っていると、
某製菓会社のコンソメパンチ味のポテトチップスを開けた時に、なぜか、そのニオイを嗅いで、
まるで押入れにずっとしまってあった毛布のようだなと感じた。
なぜ、急にそんなことを思ったのか不思議だったのだが、その久しぶりにあった友人が昔、
ずっと押入れにしまっておいた毛布はカレーせんべいのニオイがするといっていたことを思い出した。
冷やかし半分にそのことを相手に話してみると、そんなこと覚えていないというし、コンソメの香りを毛布のニオイという自分のことを変だと注意された。
なんでいきなりこんな話をしたかと言いますと、人間ってよくも悪くも変わるよねという話がしたかったのです。
もちろん、たかだか22年しか生きていない自分なんかよりも、人生経験豊富なかたは世の中には沢山いますし、きっとこのブログをいつも見てくださっている読者(そんな人がいるかは甚だ疑問ですが、いると仮定して)の方の中にはそういった人もいるとは思います。(インターネットを利用していて、なおかつ情報デザイン系のブログを読んでくださる人というと必然的にも、割合的にもきっとそうなってくるとおもいますが)
ここは、若いのがなんかいってるなぁ位に聞き流していもらえれば幸いです。
話を戻します。
人の思考や嗜好は年をとるにつれて変化していきます。
それは子供のころ嫌いだったピーマンやミョウガを、大人になると好むようになるのと似ています。
聞いた話によれば、それは人が、日々の生活を経ていく中で、経験し、体験し、無意識の上で学習しているからだそうです。
以前食べたこれと似ているな、だからこれは美味しいという信号を脳に出そう。
そんなやり取りが行われているらしいです。
きっとそれは小さい頃に自分たちが感じたものとは全く別でもっとオートマチックな作業なんだろうと思います。
僕には六つ離れた兄と、四つ離れた姉がいました。(というかいます。)
ある時、母親からおやつに出されたスナック菓子があったのですが、僕はそのお菓子がとても変な味に感じられて、自分の分を姉や兄にあげてしまった(半ばとられたといってもいい。)ことがあります。
兄弟のいる家ではどこも一緒だとは思うのですが。お菓子の分配をいかに公平にできるかが重要なのです。
ケーキを切ろうものなら定規を取り出して、お兄ちゃんのほうが一センチほど大きいなんてことを言い出す始末。
無論、我が家もそんな家庭の一つでした。
そんなお菓子争奪戦を日夜繰り返していた幼少時の僕が、なぜ兄や姉に素直にお菓子を上げてしまったのか。
それは、そのお菓子に入っていた人工の香料が、当時の僕の体に受け付けなかったからです。
そんな、僕も今では保存料たっぷりのコンビニ弁当をガリガリと食べ、体に悪いことし放題です。
きっと大人になっていく上で、心も体も社会や生活に適応していったのだと思います。
僕の好きな作家さんで森博嗣という元名古屋大の助教授だったミステリの作家さんがいるのですが、その人の小説の中にこんな文があったのを思い出しました。
「鳥類と哺乳類の分類から漏れたカモノハシとか、植物と動物の境目にいるミドリムシとか、彼らは、人間の考え出した分類を知らないわけだよ。だから、全然 影響がない。カモノハシが、自分の位置するところが中途半端で気持ちが悪いから、もうちょっと鳥っぽくなろうなんて思わないでしょう?でもね、人間は、自 分たちが作った分類システムを知っているわけ。そもそも、そのシステムこそが文化とか社会のバックグラウンドなんだから、笑う、怒る、泣くとかいうパター ンは、子供が成長する過程で教え込まれるし、本来の複雑さは、成長とともに、必然的にコントロールされて単純化へ向かう。赤ちゃんのときには、泣くと笑う の中間とか、笑うと怒るの中間の感情があったのに、いつの間にか、別々の物に離散化されて個別化される。わかる?大人になるほど、どんどん単純へ向かうん だよ」
ここでは、人間が決めた社会の分類に適合するために大人になるほど単純になると話しています。
ようはその単純化とは、社会に適合して生きていく上で、テンプレートとしてのルールに自らを適合させていった形なのではないかということです。
その過程で、個人の主観や個性といったものがどんどんと無意識化のうちに失われていく。
小さい頃はもっと複雑で、笑う感情と悲しい感情の中間なんていうものが存在していたのに、大人になるにつれてそういったものがパターン化していき消失していくのだそうです。
もう大分昔のものことになりますが、保育園の友達が、泣きながら笑っていたことが確かにあったなと思います。
大人になってしまえば泣きながら笑うという行為をすることが難しい。
そういった意味で子供のほうが優れている、柔軟であるといえるでしょう。
先ほどの味覚の話も、カレーせんべいの毛布の話も、同様です。
僕たちが大人になって、子供たちの描く絵を斬新だと思うのは、彼らの絵が個性的だからにほかなりません。
複雑な表現が可能なのだと思います。(そのひとつの例が既成概念にとらわれない)
それは僕たちがなくしていったものの一つなのかもと思いました。
僕たちが幼いころに感じたドキドキ感、わくわく感というのは、まだ単純化されるまえの子供だけの複雑なセンサが働いていたかで、たしかに僕たちは幼いころそういったドキドキやわくわくを経験していたのではないかと思ってしまいます。
なんて言うのは、夢見がちですかね 笑
いずれにせよ、ここでいう子供たちのもつような敏感なセンサーってものをもっていないなと思うものです。
人を幸せにしようとか、ハッピーな体験を考えようというときに、実体験がなければその魅力を十分に伝えられるとは思えません。すくなからず僕はそうです。
デザイナーを目指す上で、そういった些細な生活の中に敏感なセンサー(レーダー?)を持つというのは必要であると思います。
めずらしく、小難しいことを言ってしまった 笑
今日のエントリーこそ、まさに馬鹿がない知恵しぼって考えてみた感じでこのブログにはあっているのかもしれません。
たまには真面目に頭を使ってみました。
2008年10月18日土曜日
学校という場。
先日、隣の研究室のkazukiさんと話していた時にデザインの領域という話になりました。
ここでいう、デザインの領域とは、その人の持つバックボーンとでもいいましょうか。その人の経験してきたこと、体験してきたこと、知識、知恵、などデザインに反映されるであろう要素の集合体とでも言ったら理解してもらえるでしょうか。
その領域が小さければデザインの幅も小さく、大きければデザインの幅も広がる可能性があります。
それはあくまで可能性で、その幅を目一杯広げて有効活用するには技術や訓練がいるからです。
それを僕たちは大学や専門学校で学んでいるのだと僕は思っています。
エリオット・ノイスが「大切なのは心のクオリティだ」と言っていたと10月号のAXISでゴードン・ブルース氏が言っていました。幅広い経験があればあるほど心は幅広くなるのだそうです。
ここではゴードン・ブルースは「情報は便利ですが、実践を伴った情報は叡智となる」と述べています。
これは以前、情報の再認識やヴィジョンを持つというエントリーで自分が言いたかったことで、
それをする時期がおそらくは今であり、それを体験できるのがおそらくは学校というものだと思います。
勉強や経験は社会に出てからもできると思います。むしろ社会に出てからのほうが多いかもしれません。
でも、時間をかけて、何かあったら質問できる人が身近にいて、あわよくば実践の機会が与えられる。学ぶための専門の場なのですから。
そんな場所で僕たちは、心のクオリティを日々磨いていくのだと思うのです。
どう磨くかは個人次第。
そういう場所が学校なのだと僕は思います。
話は少し変わりますが、外部の方に研究室におこし頂くとよく、
「君たちは本当に恵まれているね」と言われます。
僕自身、今の研究室は本当に贅沢な場だと実感しています。
著名な方にきていただいてお話を聞く機会をいただいたり、外との交流の場をもらったり、実践の機会をいただいたり、書物や資料も多く、環境を整えてもらっている。おまけにコーヒーと紅茶は飲み放題 笑
なんて最高な環境でしょうか。
教授の理解もあり、隣の研究室とは仲良くしてもらっているし、ロジカルなことや感性的なことを親切に教えてもらえる。
でも、環境が整っていようとそこにいる人が動かなければ意味がない。
ここでは僕たち生徒次第であると思います。
自分のいる環境の贅沢さにいかに気づけるか。
自分の今いる環境にいかに気づけるか。
それこそが多分、学校という中で生徒が動き始めるためのキーポイントの一つな気がします。
僕自身、環境を用意してもらっている以上、すこしでも成長していきたいなと思うこの頃です。
ここでいう、デザインの領域とは、その人の持つバックボーンとでもいいましょうか。その人の経験してきたこと、体験してきたこと、知識、知恵、などデザインに反映されるであろう要素の集合体とでも言ったら理解してもらえるでしょうか。
その領域が小さければデザインの幅も小さく、大きければデザインの幅も広がる可能性があります。
それはあくまで可能性で、その幅を目一杯広げて有効活用するには技術や訓練がいるからです。
それを僕たちは大学や専門学校で学んでいるのだと僕は思っています。
エリオット・ノイスが「大切なのは心のクオリティだ」と言っていたと10月号のAXISでゴードン・ブルース氏が言っていました。幅広い経験があればあるほど心は幅広くなるのだそうです。
ここではゴードン・ブルースは「情報は便利ですが、実践を伴った情報は叡智となる」と述べています。
これは以前、情報の再認識やヴィジョンを持つというエントリーで自分が言いたかったことで、
それをする時期がおそらくは今であり、それを体験できるのがおそらくは学校というものだと思います。
勉強や経験は社会に出てからもできると思います。むしろ社会に出てからのほうが多いかもしれません。
でも、時間をかけて、何かあったら質問できる人が身近にいて、あわよくば実践の機会が与えられる。学ぶための専門の場なのですから。
そんな場所で僕たちは、心のクオリティを日々磨いていくのだと思うのです。
どう磨くかは個人次第。
そういう場所が学校なのだと僕は思います。
話は少し変わりますが、外部の方に研究室におこし頂くとよく、
「君たちは本当に恵まれているね」と言われます。
僕自身、今の研究室は本当に贅沢な場だと実感しています。
著名な方にきていただいてお話を聞く機会をいただいたり、外との交流の場をもらったり、実践の機会をいただいたり、書物や資料も多く、環境を整えてもらっている。おまけにコーヒーと紅茶は飲み放題 笑
なんて最高な環境でしょうか。
教授の理解もあり、隣の研究室とは仲良くしてもらっているし、ロジカルなことや感性的なことを親切に教えてもらえる。
でも、環境が整っていようとそこにいる人が動かなければ意味がない。
ここでは僕たち生徒次第であると思います。
自分のいる環境の贅沢さにいかに気づけるか。
自分の今いる環境にいかに気づけるか。
それこそが多分、学校という中で生徒が動き始めるためのキーポイントの一つな気がします。
僕自身、環境を用意してもらっている以上、すこしでも成長していきたいなと思うこの頃です。
2008年10月8日水曜日
スケッチ集中講座
6日はSIIの久米さんに来ていただいてアイデアスケッチの集中講座がありました。
本当は三年生の情報デザイン2の一貫として行われるプログラムなのですが、担当教員が山崎先生ということもあり研究室のメンバー数人でまぎれて参加させてもらいました。
スケッチのお題は「プロジェクター内臓携帯電話のエクステリア、もしくは使用シーン」
上記の内容で、一時間以内に五枚のスケッチを描いてプレゼンテーションするというプログラムです。
自分のスケッチを数枚。
絵がへたくそな自分のスケッチはこんな感じ。

プロジェクターとかレイザーポインター、懐中電灯でライトセイバーごっこ。そんな感じで携帯でライトセイバー!!結構ふざけた内容です。何よりふざけているのがライトセイバーの綴りか明らかに間違っていること。正しくはlihgtsaberである。rightsaverでは直訳して「右を守る人」なんじゃそりゃ。

携帯電話にモールス信号とかSOSのアプリケーションとかあらかじめ入ってたら遭難した時や、災害時にけっこうやくだつんじゃないかと書いてみたものがこれ。
言わずもがなライトの綴りが間違っている。
「右舷前方に遭難信号発見!!」って感じでしょうか。
でも、右手で持ってるし、ぎりぎりセーフかもしれないと開き直り。
右手専用の遭難信号つき携帯電話という後付け設定をおもいついだけど、口に出すのも憚られたのでただひたすらみんながそこに気付かないのを願うばかりでした。
その後の、プレゼンテーションでは基本的に挙手制で自発的に参加しなければ発表の場を得られない。
三年生は基本的に手を挙げず、参加していた四年生ばかりが発表をしていたので四年生はそこで終了。
途中から先生たちの指名で三年生の発表へと移っていった。
今の三年生はスケッチを結構かけるようなので恥ずかしがらずに出ていくべきだなと感じました。
外に出されないアイデアはどんなに素晴らしいものであってもその価値は半減してしまうのではないでしょうか。
以下、その時のメモ
・デザインをする上で過去を学ぶことが大切
・デザインにとって観察というのがとても大切
・発想をかなえるために技術を知る。
・アイデアは遠い未来でなく、案外自分の身近なところに落ちている。そこに気付けるかどうかがカギ。
・スケッチとは自分のデザインの履歴であり、ポートフォリオを見る時も最終アウトプットよりもスケッチを見る人が多い、
・壁に張った時に映える描き方を意識する。
普段、何気なく書いているスケッチも意識を変えるだけでこんなにも変わるのかという貴重な体験をさせてもらいました。
本当は三年生の情報デザイン2の一貫として行われるプログラムなのですが、担当教員が山崎先生ということもあり研究室のメンバー数人でまぎれて参加させてもらいました。
スケッチのお題は「プロジェクター内臓携帯電話のエクステリア、もしくは使用シーン」
上記の内容で、一時間以内に五枚のスケッチを描いてプレゼンテーションするというプログラムです。
自分のスケッチを数枚。
絵がへたくそな自分のスケッチはこんな感じ。
プロジェクターとかレイザーポインター、懐中電灯でライトセイバーごっこ。そんな感じで携帯でライトセイバー!!結構ふざけた内容です。何よりふざけているのがライトセイバーの綴りか明らかに間違っていること。正しくはlihgtsaberである。rightsaverでは直訳して「右を守る人」なんじゃそりゃ。
携帯電話にモールス信号とかSOSのアプリケーションとかあらかじめ入ってたら遭難した時や、災害時にけっこうやくだつんじゃないかと書いてみたものがこれ。
言わずもがなライトの綴りが間違っている。
「右舷前方に遭難信号発見!!」って感じでしょうか。
でも、右手で持ってるし、ぎりぎりセーフかもしれないと開き直り。
右手専用の遭難信号つき携帯電話という後付け設定をおもいついだけど、口に出すのも憚られたのでただひたすらみんながそこに気付かないのを願うばかりでした。
その後の、プレゼンテーションでは基本的に挙手制で自発的に参加しなければ発表の場を得られない。
三年生は基本的に手を挙げず、参加していた四年生ばかりが発表をしていたので四年生はそこで終了。
途中から先生たちの指名で三年生の発表へと移っていった。
今の三年生はスケッチを結構かけるようなので恥ずかしがらずに出ていくべきだなと感じました。
外に出されないアイデアはどんなに素晴らしいものであってもその価値は半減してしまうのではないでしょうか。
以下、その時のメモ
・デザインをする上で過去を学ぶことが大切
・デザインにとって観察というのがとても大切
・発想をかなえるために技術を知る。
・アイデアは遠い未来でなく、案外自分の身近なところに落ちている。そこに気付けるかどうかがカギ。
・スケッチとは自分のデザインの履歴であり、ポートフォリオを見る時も最終アウトプットよりもスケッチを見る人が多い、
・壁に張った時に映える描き方を意識する。
普段、何気なく書いているスケッチも意識を変えるだけでこんなにも変わるのかという貴重な体験をさせてもらいました。
2008年10月1日水曜日
Blogとスケッチ。
そういえばブログを始めてから一ヵ月近くたちます。
ブログを始めてから自分の中で明らかに以前と考え方が変わっていると感じています。
その原因としてよく挙げられるのが
・考えをいったん自分の外にだし、再構築してアウトプットするから
・人に教えるために分かりやすく整理するから
というようなものです。
そういった理由をふまえた上で、じゃぁなぜそれが理解につながるのだろうと考えてみると、それはアウトプットの先に、自分がいるからだと僕は感じています。
ブログを書くときに、ブログを読んで下さる読者を意識して書きます。この書くという行為の先には一番最初の読者である自分がいると感じるのです。
以前まで僕は、自分の内面をアウトプットするという意味でアイデアスケッチとブログは同じようなものなのではないのかと考えていたのですが、アイデアスケッチとブログでは全然違うものだと分かりました。

アイデアスケッチが自分の中の抽象的なイメージをとりあえずアウトプットしてみて試作検討をするという行為なのだとしたら、
ブログに記事を書くという行為は、自分の中の認識や知識を整理し、より簡潔にまとめる行為だと思います。
この行為はディスカッションに似ていて、自分が何がわかっていないのか、また得られた知識に対しての確認しあうの意味を持つのではないでしょうか。
また、知識を簡潔にまとめることにより、自分が今まで理解に到達していなかった部分に気づいたり、学んだことが、ほかのどの部分につながるのかというようなことも見えてくるように思います。
ブログの記事を書くということは、自分自身との対話に近いものだと少なからず感じるのです。
ブログを始めてから自分の中で明らかに以前と考え方が変わっていると感じています。
その原因としてよく挙げられるのが
・考えをいったん自分の外にだし、再構築してアウトプットするから
・人に教えるために分かりやすく整理するから
というようなものです。
そういった理由をふまえた上で、じゃぁなぜそれが理解につながるのだろうと考えてみると、それはアウトプットの先に、自分がいるからだと僕は感じています。
ブログを書くときに、ブログを読んで下さる読者を意識して書きます。この書くという行為の先には一番最初の読者である自分がいると感じるのです。
以前まで僕は、自分の内面をアウトプットするという意味でアイデアスケッチとブログは同じようなものなのではないのかと考えていたのですが、アイデアスケッチとブログでは全然違うものだと分かりました。

アイデアスケッチが自分の中の抽象的なイメージをとりあえずアウトプットしてみて試作検討をするという行為なのだとしたら、
ブログに記事を書くという行為は、自分の中の認識や知識を整理し、より簡潔にまとめる行為だと思います。
この行為はディスカッションに似ていて、自分が何がわかっていないのか、また得られた知識に対しての確認しあうの意味を持つのではないでしょうか。
また、知識を簡潔にまとめることにより、自分が今まで理解に到達していなかった部分に気づいたり、学んだことが、ほかのどの部分につながるのかというようなことも見えてくるように思います。
ブログの記事を書くということは、自分自身との対話に近いものだと少なからず感じるのです。
2008年9月20日土曜日
ヴィジョンをもつ-ペルソナを学ぶときに思うこと
前のエントリーの”ヴィジョンを持つ”の続きのようなものです。
前のエントリーでは、ヴィジョンを持つことで学びの成果は変わってきますよね?といった内容の記事を書いたのですが、
例えば、ペルソナ手法を学ぼうとしたときに、ペルソナ手法を使うことで得られるメリット(活用事例)というのを知識としてもっていなければ、ペルソナ手法を学んでも意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
ペルソナを使うメリットがわからなければ、どう使っていいかもわからなくなる。
授業でペルソナを来週までに作ってきてくださいと言われて作っても、自分のデザイン活動にどう生きるかというヴィジョンがなければそれは単に先生に言われたので作っただけであって、学びではなく作業なんじゃないだろかと思うのです。
ペルソナを作ったところで活用できていない。
ペルソナ手法を教える授業には、参加者としても、オブザーバーとしても何回か参加したことがありますが、授業でペルソナを扱うと大体二つのタイプに分かれます。
ひとつが「ペルソナ嫌い」タイプです。
早い話が、ペルソナが自分のやりたい事やデザインをする上での枷になってしまっている人たちです。
自分がおもしろいインタラクションやアイデアなどを思いついても、ペルソナにとってそぐわないのでジリ貧になるという状態に陥ります。(たまに授業をドロップアウトする生徒もいますが大体このタイプです)
二つ目は「ペルソナ放置」タイプです。
序 盤にペルソナを作ったにも関わらず、ペルソナの存在を放置して、自分の好きなようにデザインするというタイプです。もしくは、自分のやりたいことに合わ せてペルソナを変更していたりします。その変更がインタビューを反映したものならいいのですが、まったく無関係だと、それっていいのか?と思うときがあり ます。
デザイン活動をしていく上でペルソナが変わること自体は別にいいらしいのだけど、作った人物をどこまで変更していいのか自分はまだ勉強不足で測りきれていないです。
(下手したら人物像の改ざんになるのでは?と思うこともしばしばあります。)
授 業の人数自体は多いのですが、(僕自身勉強中の身ですが)、ペルソナを作ってそのままどうしていいか分からないから放置している人が大半を占めます。(も ちろんペルソナ手法をたった13時間でどうにかしようというのだから、自分から学びに参加しなければ理解も何もないとは思いうのですが)
プロセスにそって言われたとおり、書いてある通りにペルソナを作ったけど作ることが目的になって活用していないってのは学生も、企業さんも規模の差はあれ同じようなじょうたいなのかもしれません。
まさしく「ペルソナつくって、それからどうするの?」って状態ですね。
プ ロセスにそってペルソナを作成し、ペルソナを活用する術を知らずにそれで自分がペルソナ手法を学んだという風に認識していく。とりあえずペルソナを作れ ば、プロセスにそって”作業”したから「人間中心設計をしている。ペルソナ手法をつかって人にやさしいデザインをしている。」なんてことが広まっていくと ユニバーサルデザインのように定義もあやふやなまま世間に浸透していってしまい、広告のキャッチコピーとしてしか活用されなくなってしまうのではないかと 思うときもあります。
これがきっとUCDにかかわる方が言っている懸念なのかと思いました。
活用の仕方を理解せずにプロセスだけを学ぶということは下手したらそういった人たちを量産していることになっているのかもしれません。
ですから、自分的には最初にペルソナ手法を使うことで得られるメリットなんかを具体的な事例で教えてあげればいいのかなと思います。
ペルソナを活用する際の選択肢の一つを提示してあげればいいのではないかと思うのです。
このワンクッションを挟むことで少しは違ってくる気がします。
それも”情報を共有するためのユーザー像”といったような説明ではなく、実際にペルソナをほかの部署と共有することで、他の部署と連携することでこんなメリットがありましたというような具体的な事例であればある程いいと思います。
それはまさしく、シナリオを用いた情報共有と同じことだと思うのです。このとき実際の活用事例が公開できるなら公開したほうがいいと思います。学生にとって社会に出て学校で学んだことをどう生かせばいいのか、自分にあてはめてヴィジョンを持てるからです。
これは体験談的な話なのですが、
以前、ゼミで「ペルソナを使った企業の成功事例」をプレゼンしてくださった外部の方がいたのですが、自分はそのプレゼンを聞いて明確なヴィジョンというか、イメージをつかめた気がします。
自分から講習会やセミナーに参加するビジネスマンを相手にするのと、単位目当てが大半の学生を相手にするのはやはり勝手が違うものだと授業風景を見ていてつくづく感じます。
前者はペルソナ手法を学ぶことで自分や会社にどういったメリットがあるかを理解していて、
後者は、学校で学んだことが後の自分にどうかかわってくるか理解していないので習得に至らない。
客観的にみてもヴィジョンの有無で学びの成果というのはこうも変わってきてしまうものなのですね。
自分の研究室にももうすぐ後輩が入ってくるのですが、質問されたときにちゃんと先輩として答えられるようにしておかなければですね。
前のエントリーでは、ヴィジョンを持つことで学びの成果は変わってきますよね?といった内容の記事を書いたのですが、
例えば、ペルソナ手法を学ぼうとしたときに、ペルソナ手法を使うことで得られるメリット(活用事例)というのを知識としてもっていなければ、ペルソナ手法を学んでも意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
ペルソナを使うメリットがわからなければ、どう使っていいかもわからなくなる。
授業でペルソナを来週までに作ってきてくださいと言われて作っても、自分のデザイン活動にどう生きるかというヴィジョンがなければそれは単に先生に言われたので作っただけであって、学びではなく作業なんじゃないだろかと思うのです。
ペルソナを作ったところで活用できていない。
ペルソナ手法を教える授業には、参加者としても、オブザーバーとしても何回か参加したことがありますが、授業でペルソナを扱うと大体二つのタイプに分かれます。
ひとつが「ペルソナ嫌い」タイプです。
早い話が、ペルソナが自分のやりたい事やデザインをする上での枷になってしまっている人たちです。
自分がおもしろいインタラクションやアイデアなどを思いついても、ペルソナにとってそぐわないのでジリ貧になるという状態に陥ります。(たまに授業をドロップアウトする生徒もいますが大体このタイプです)
二つ目は「ペルソナ放置」タイプです。
序 盤にペルソナを作ったにも関わらず、ペルソナの存在を放置して、自分の好きなようにデザインするというタイプです。もしくは、自分のやりたいことに合わ せてペルソナを変更していたりします。その変更がインタビューを反映したものならいいのですが、まったく無関係だと、それっていいのか?と思うときがあり ます。
デザイン活動をしていく上でペルソナが変わること自体は別にいいらしいのだけど、作った人物をどこまで変更していいのか自分はまだ勉強不足で測りきれていないです。
(下手したら人物像の改ざんになるのでは?と思うこともしばしばあります。)
授 業の人数自体は多いのですが、(僕自身勉強中の身ですが)、ペルソナを作ってそのままどうしていいか分からないから放置している人が大半を占めます。(も ちろんペルソナ手法をたった13時間でどうにかしようというのだから、自分から学びに参加しなければ理解も何もないとは思いうのですが)
プロセスにそって言われたとおり、書いてある通りにペルソナを作ったけど作ることが目的になって活用していないってのは学生も、企業さんも規模の差はあれ同じようなじょうたいなのかもしれません。
まさしく「ペルソナつくって、それからどうするの?」って状態ですね。
プ ロセスにそってペルソナを作成し、ペルソナを活用する術を知らずにそれで自分がペルソナ手法を学んだという風に認識していく。とりあえずペルソナを作れ ば、プロセスにそって”作業”したから「人間中心設計をしている。ペルソナ手法をつかって人にやさしいデザインをしている。」なんてことが広まっていくと ユニバーサルデザインのように定義もあやふやなまま世間に浸透していってしまい、広告のキャッチコピーとしてしか活用されなくなってしまうのではないかと 思うときもあります。
これがきっとUCDにかかわる方が言っている懸念なのかと思いました。
活用の仕方を理解せずにプロセスだけを学ぶということは下手したらそういった人たちを量産していることになっているのかもしれません。
ですから、自分的には最初にペルソナ手法を使うことで得られるメリットなんかを具体的な事例で教えてあげればいいのかなと思います。
ペルソナを活用する際の選択肢の一つを提示してあげればいいのではないかと思うのです。
このワンクッションを挟むことで少しは違ってくる気がします。
それも”情報を共有するためのユーザー像”といったような説明ではなく、実際にペルソナをほかの部署と共有することで、他の部署と連携することでこんなメリットがありましたというような具体的な事例であればある程いいと思います。
それはまさしく、シナリオを用いた情報共有と同じことだと思うのです。このとき実際の活用事例が公開できるなら公開したほうがいいと思います。学生にとって社会に出て学校で学んだことをどう生かせばいいのか、自分にあてはめてヴィジョンを持てるからです。
これは体験談的な話なのですが、
以前、ゼミで「ペルソナを使った企業の成功事例」をプレゼンしてくださった外部の方がいたのですが、自分はそのプレゼンを聞いて明確なヴィジョンというか、イメージをつかめた気がします。
自分から講習会やセミナーに参加するビジネスマンを相手にするのと、単位目当てが大半の学生を相手にするのはやはり勝手が違うものだと授業風景を見ていてつくづく感じます。
前者はペルソナ手法を学ぶことで自分や会社にどういったメリットがあるかを理解していて、
後者は、学校で学んだことが後の自分にどうかかわってくるか理解していないので習得に至らない。
客観的にみてもヴィジョンの有無で学びの成果というのはこうも変わってきてしまうものなのですね。
自分の研究室にももうすぐ後輩が入ってくるのですが、質問されたときにちゃんと先輩として答えられるようにしておかなければですね。
2008年9月19日金曜日
当り前のことに気が付く。
ここ最近のエントリー記事で、僕は知識だけでなく体験や経験をもとにした実感が伴わなければ理解したことにはならないのではないだろうかというようなことを書いているのですが。
なんだかんだとうだうだ書いているにも関わらず、いっていることは聞いてみれば「なんだ当たり前のことじゃないか」と思うようなことなのだと思います。
ただ、最近常々思うのは今まで22年間生きてきた中で、得てきた知識というのはあまりにもその物事の表層の部分だけなのではないかと思うのです。
当り前の事こそ説明に困りませんか?
小さい子供の「なんで?」という質問の連続に言葉が出てこないとき、自分は全然物事を理解していないんだと痛感させられました。
「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」という三浦梅園という江戸時代の思想家の方が残した言葉があるのですが、非日常的なことや、突飛なことにおどろくよりも、日常の当たり前の中にもっと驚くべきものがあるという意味でつかわれたりします。
僕が考えていることはまさにそういうことなのではないかと思います。
別に心理を探究する哲学者を目指しているわけではないのですが、たとえば自分がデザイン活動をしていく上で必要になる手法や行為の基本的なロジックは理解しておかなければうまく活用できないと思います。
手法を勉強しました。本を読んで知識を得ました。それで手法のメソッドや知識を何の疑問も持たないまま”あたりまえ”と思ってそのまま使い、手法を使ったから正しいデザインです。とはいかないのだと思います。
インフォメーショングラフィクスはあまり得意ではないのですが、そういった思考ロジックや、日常のふるまいなど、当り前のことをあえて図しかしていくというのが大切なのではないかなと思った次第です。
あんまり文章だけのブログではつまらないと思うので、なるべく図を入れつつこれからも当たり前のことを書いていこうと思う今日この頃です。
なんだかんだとうだうだ書いているにも関わらず、いっていることは聞いてみれば「なんだ当たり前のことじゃないか」と思うようなことなのだと思います。
ただ、最近常々思うのは今まで22年間生きてきた中で、得てきた知識というのはあまりにもその物事の表層の部分だけなのではないかと思うのです。
当り前の事こそ説明に困りませんか?
小さい子供の「なんで?」という質問の連続に言葉が出てこないとき、自分は全然物事を理解していないんだと痛感させられました。
「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」という三浦梅園という江戸時代の思想家の方が残した言葉があるのですが、非日常的なことや、突飛なことにおどろくよりも、日常の当たり前の中にもっと驚くべきものがあるという意味でつかわれたりします。
僕が考えていることはまさにそういうことなのではないかと思います。
別に心理を探究する哲学者を目指しているわけではないのですが、たとえば自分がデザイン活動をしていく上で必要になる手法や行為の基本的なロジックは理解しておかなければうまく活用できないと思います。
手法を勉強しました。本を読んで知識を得ました。それで手法のメソッドや知識を何の疑問も持たないまま”あたりまえ”と思ってそのまま使い、手法を使ったから正しいデザインです。とはいかないのだと思います。
インフォメーショングラフィクスはあまり得意ではないのですが、そういった思考ロジックや、日常のふるまいなど、当り前のことをあえて図しかしていくというのが大切なのではないかなと思った次第です。
あんまり文章だけのブログではつまらないと思うので、なるべく図を入れつつこれからも当たり前のことを書いていこうと思う今日この頃です。
2008年9月17日水曜日
ヴィジョンを持つ
以前、情報の再認識というエントリーでも書いたことなのですが、知識を得ることが決して理解に至るということではないのだなぁ、というのが最近の実感です。
知識 ≠ 理解 てことですね。
物事を理解するためには。知識と実感が必要になってくると思います。

料理に例えるなら、知識はレシピ、実感(体験)が調理、理解が料理になるという感じです。
レシピだけ知っていても、実際に何回も調理をしなければおいしい料理はできないってのと一緒なのかなと思います。
お味噌汁は沸騰させてはいけません。と言われても、実際に沸騰させて風味がとんだものを飲んだことがない人は、なんで沸騰させてはいけないのかわからない。
これってたぶん普段、自分たちが大学やゼミなどで学んでいることも一緒だと思うんですよ。
自分がいま何を勉強していて、それを学ぶことで将来的に自分がどうなるのかというヴィジョンがなければ、言われたからやってくるというようなそれはやはり勉強ではなくてただの作業なのだと思うのです。
また、ヴィジョンを持っていれば自分の行動した結果をヴィジョンと照らし合わせフィードバックをかけることができるのでやはり効率的ですね。
なにかソフトを覚えたくて教本だけ買ってきてもだめだけど、作りたいものがあって教本買ってきて作業をするとなぜかすんなり覚えられたりするのはきっと明確に作りたいもの(ヴィジョン)があるからなんだろうな。
知識 ≠ 理解 てことですね。
物事を理解するためには。知識と実感が必要になってくると思います。

料理に例えるなら、知識はレシピ、実感(体験)が調理、理解が料理になるという感じです。
レシピだけ知っていても、実際に何回も調理をしなければおいしい料理はできないってのと一緒なのかなと思います。
お味噌汁は沸騰させてはいけません。と言われても、実際に沸騰させて風味がとんだものを飲んだことがない人は、なんで沸騰させてはいけないのかわからない。
これってたぶん普段、自分たちが大学やゼミなどで学んでいることも一緒だと思うんですよ。
自分がいま何を勉強していて、それを学ぶことで将来的に自分がどうなるのかというヴィジョンがなければ、言われたからやってくるというようなそれはやはり勉強ではなくてただの作業なのだと思うのです。
また、ヴィジョンを持っていれば自分の行動した結果をヴィジョンと照らし合わせフィードバックをかけることができるのでやはり効率的ですね。なにかソフトを覚えたくて教本だけ買ってきてもだめだけど、作りたいものがあって教本買ってきて作業をするとなぜかすんなり覚えられたりするのはきっと明確に作りたいもの(ヴィジョン)があるからなんだろうな。
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