ラベル ユニバーサルデザイン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ユニバーサルデザイン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年6月2日火曜日

トイレとAさん

先日、面白い話を聞いた。

僕の姉は、留学していたことがあり、外国の方の知り合いが沢山います。

これは、その中のブラジル人の友人の体験談だそうです。

かりにこの人をAさんとします。

ある日、姉がAさんと会話をしていて「日本に来て驚いたことってなにかある?」という話になり、Aさんは自分の体験を話し始めます。

Aさんはその日、自転車に乗っていると急にトイレに行きたくなりコンビニのトイレを借りることにしました。

すると、そのコンビニのトイレは和式だったため、Aさんは戸惑います。

今まで、自分の国でも、よその国に出かけてもトイレは洋式だったため、和式のトイレを前にAさんはどうしていいかわからなくなり、戸惑いながらも下のような体制になったとか。


















結局、上の図のように両腕を突っ張ってバランスをとったそうなのですが、確かに初めて見る人にとっては戸惑うだろうなと感じました。

また、最近では圧倒的に洋式トイレが普及してきた為に、和式トイレの使い方が解らない子供も結構いるみたいです。

中にはそのまま、おまるのように直に座ったり、コンビニなどにある便座だけ一段上がったタイプの場合は洋式トイレのように腰かける子もいるのだとか。



Aさんがその時に不満に思ったというのは以下の点だったという。


・使い方のようなものが壁にあればいい。


・せめて、便器の横に足のマークを描いたり、手で捕まるところが解るようになっていればいいのに。



確かにそうですよね。

言語に頼らず、壁に正しい使い方のピクトグラムのいちまいでもあればそれだけで大体理解出来るような気もします。




洋式トイレのほうは使い方のピクトグラムが作られているのになんで和式は無いんでしょう?

和式って日本人しか使わないものだと勝手に思っていたのでこの話はとても考えさせられました。




おまけ







ということで、和式トイレのピクトグラムを何となく作ってみた。いやー、難しい。
手と足の処理とか解りやすくするためにはどうするべきかと思案していたら、まるでジェットスキーに乗っているかのようなモノになってしまいました。

比率とか凄くおかしいんですけれど、正確な比率にしたらなんだかわかりにくいし。

テンプレートとかにそっても居ないんですが、色々いじってみた挙句、

ピクトさんがSDキャラのような感じでコミカルな感じになりました。


こんなモノでも、便器の前の壁にでも貼ってあればAさん程は戸惑わないのではないでしょうか?

それにしても、やっとの思いでトイレに入って使い方が解らないって想像するだけでももの凄い絶望感が凄そうですね。

2009年3月24日火曜日

空想生活へ提案

昨日、無事に大学を卒業することができました。
四月からは院へいくことになっているのですが、体調管理を第一にして頑張りたいとおもいます。

さて、卒業して四月の一日まではどこにも所属していない人間となったわけですが、さっそく研究室にてミーティングがありました。

昨年のトヨタUDワークショップ デザインインキュベーターの一環として、チーム「TOY CAST」名義でデザインしたものです。

何度かこのブログにも投稿したことがあるのでご存知のかたもいらっしゃるかもしれませんが、先日、代官山ヒルサイドテラスにて行われた学外展示会に出展した際にゲストとして来てくださった空想生活の方からアドバイスをいただき、空想生活に投稿してみることにしました。

テーマとしては「家族が使いやすい育児モビリティ」です。

なぜ母親ばかりが育児ノイローゼになるのか?といった育児に対する家族側からの考え方や、
駅の階段やエスカレーターなどのインフラ的問題。
現在のベビーカーに問題と、事故などを調べ、育児用の雑誌を成人をむかえた男三人で読み漁り、
インタビュー調査と、近隣のデパートへの観察、母子会への訪問、専門に研究されている大学の教授への訪問など、いまおもえば手探りでもう一年近くこのデザインにかかわっていることになります。

ペルソナ・シナリオ手法もつかいました。

空想生活のサイトには詳しいことを乗せられていないのですが、かけた時間分の資料などもあるのでちょいちょい出していこうかとおもっています。

もしよかったらクリックしてコメントなんかを残してくれるとうれしいです。
投票してくださるなお嬉しいです。小躍りします。


2008年12月6日土曜日

ユニバーサルデザインについて 3 

昨今、金銭的な格差問題が取り上げられていますが、それと同じくらい今、情報の格差というものが起こっていうるといわれています。

テレビやラジオ、新聞といったマスメディア系のもの以外にも、WEBや携帯電話なんかがそこに入ってきたことで、プロフやmixiに代表されるようなブログ形式のものや、WEB2.0といわれるようなユーザー発信の情報というものが増えてきています。

そういった背景から、今までとは比べ物にならないほど世の中には情報があふれ、こちらからあえて情報を取得しに行かなければ得られない情報などもあり、情報収集に意欲的な人と。そうでない人の間に大きな格差が生まれるということらしいです。

また、情報を持たない人、知るすべを持たない人たちのことを情報弱者なんていう言葉で語るような場合もあります。

こういったPCなどにより情報を収集活用できる人と、PCを持たない、またうまく操作できない、インフラが整っていないなどさまざまな条件により情報の活用ができない人との間では、情報を持つ、持たないということで社会的な格差が生まれてしまうことをデジタルデバイドなんていったりするそうですが、情報の格差がそのまま社会的な格差(金銭やサービスの享受)へもつながるなんて話を聞いてしまうと、情報化社会なんてメディアの中でしか聞いたことのないような単語が事実、今の社会をきちんと表しているなと実感します。

また、情報を収集するだけで、そこから実際にその情報を使う人がどれほどいるかというとグンとパーセンテージは低くなりそうですね。

昨今、情報のユニバーサル化という話を耳にするのですが、このような背景があれば納得できるというものです。身体的な問題で、WEBを利用するのが困難なかたや、PCや新しいサービスにうまく適応できない人など様々な人がいるわけですから、その人にまず情報を入手できる環境を作ること。

そして、情報のUDとはその情報を活用するところまで範囲は及ぶ気がします。

①情報を入手する   デジタルな問題

②情報を活用する。  フィジカルな問題

この情報を活用するというところまでできなければ、ユーザーにとって歯がゆいままですよね。

また、情報の活用とは結局のところその多くがフィジカルな問題でもあったりします。
なんだフィジカルな問題であるなら、今までのパブリック的なUDでいいじゃないかと思われるかも知れませんが、この①と②の間をつなぐ1.5があるかないかがカギになってくると思います。

先ほど、情報を入手してから活用するまでに一気にパーセンテージは減るだろうという話をしたのですが、それは①と②をつなぐ間にはいくつもの障害があるからであると僕は思います。

たとえばそれは純粋に面倒くさいということかもしれないですし、
精神的なものかもしれません。
金銭的かもしれませんし、時間的な余裕や、手段の不足なのかもしれません。

情報に限らずUDという言葉はなぜかその場限りやその場しのぎの解決に向きがちであると思います。

たとえば、僕のいた高校ではエレベータがないのになぜか二階に車いす用のトイレがありました。
それはもしかしたら県立の高校だったので、条例的な問題で形だけ取り入れただけなのかもしれません。

①の部分だけのUDとはたとえばそれは
ECサイトで商品は見つけやすいけど、めちゃくちゃめんどくさい手順を踏まなきゃ購入できない。そんな状態なのかもしれません。

商品を見つけたあとの購入までやって初めて情報のUD化となるのかなと思いました。

2008年11月11日火曜日

ユニバーサルデザインについて2



道と私有地の段差をなくしても、入口が自動ドアじゃなければ車椅子やベビーカーの人にとってこのお店は遠いものになってしまう。




ユニバーサルデザインについてのまとめ二回目です。


前回はUDとはデザインの概念であるという話をしました。

今回は「パブリックとパーソナルについて」です。

今回のトヨタUDワークショップのテーマはパーソナルモビリティでしたが、多くの学生たちがUDとパーソナルというものがどうつながるかについて頭を悩ませました。


UDというとどうにもパブリックなものに意識が行きがちです。



なぜかというと、公共のものほど多くの人が使うものだから。



と、いうよりも、理想をいうのならばその公共施設を利用するすべての人に使えなければいけないのです。



なぜならば公共施設はみなさんが働いて払っている税金をもとに作られているからです。



言ってしまえば、国民みんなにその権利があるのに、利用状況に差があってはいけない。



その施設を使うにあたっての近づきやすさ(アクセシビリティ)は理想を言えば平等であるべきだと思います。



公共施設に適用されるアクセシビリティとパーソナルなプロダクトに適用されるUDとは同議なのかと言われるとそうではないように感じます。


パーソナルUDとパブリックUDと仮に呼称して、説明します。

僕が思うにパーソナルUDとパブリックUDの一番の大きな違いは、多くの人に利用可能なデザインにするために、他のユーザーの利用への満足度を下げたり、プロダクト自体の機能に制限がかかる場合がパブリックUDにはありえるということだと思います。



前のエントリーで僕はUDとは多様なユーザーニーズの平均値をとることではないといいましたが、公共物へのアクセシビリティを考慮する際にはそういった事例が存在する気がします。



その良い例が多機能トイレだったりするのかも知れません。


簡単にまとめるとこうなります。






おそらくUDへ持っていくためのアプローチの違いが表れているのだと思います。

パーソナルUDの場合、最初に個人にとっての問題解決、使いやすさが重視され、そこを突き詰めることにより周りの人間にとっても使いやすいものになっていきます。



まず最初に対象ユーザーありきです。UDの基本理念は最初からバリアを作らない設計ですが、対象ユーザーを決めたからといってその他のユーザーにとってバリアができるかと言われると必ずしもそうでないと思います。

早い話がやり方次第。



まず最初にユーザーの問題解決から入っていくという点ではバリアフリーと言えるでしょう。



多くの書籍や人がいっているように、バリアフリーとは、UDを実践する際の途中段階であると僕も思っているので、ここではそういった前提で話をしています。



まず最初に誰を救うのか、それを決めてからそのプロダクトのキャパシティの許す範囲で多くの人に使いやすいようにデザインしていきます。



最初に誰のためのデザインなのかを設定する
ので、だからHCDやペルソナ手法はUDに使われています。



次にパブリックUDの場合、最初にできるだけ多くの人が使えるように設計し(いわゆる平均値的なデザイン)、その後、どのユーザーのために特化していくかという流れになるのだと思います。(多くのパブリックUDは初期の段階でストップしているように感じます)







このようにUDと一口にいっても、対象物の立ち位置や人や物との関係によってアプローチの仕方が変わっていくべきなのだと僕は思います。






別に平均値的なデザインを否定するわけでもなんでもないのですが、あまりにも盲目的にそれをする傾向にあるように僕は思います(企業も学生も)。

用途によってどちらに比重を置くかということを考えましょうということなのではないでしょうか。

なんでもかんでもUDとはこうじゃなければいけないなんて言う必要はないのだと思います。


まとめ

・パブリックとパーソナルではUDのアプローチは変わってくる。

・バリアフリーはUDに発展する途中の段階である。UDに発展するためにはユーザーを深堀したデザインが必要です。

2008年11月10日月曜日

ユニバーサルデザインについて 1

フィールドワークで撮影した一枚。
せっかくのスロープも花壇にされては意味がない。
形だけのUDへの取り組み。



この半年間、ユニバーサルデザイン(以下UD)というものについて僕は学んできました。
その上で感じたこと学んだことをここにまとめておこうかと思います。



「ユニバーサルデザインとは概念である」


まず最初に僕がユニバーサルデザインというものを学ぶにあたってある程度の定義づけを必要としました。

それはUDとは何なのかということです。



世間一般に広まっているUDの定義として"すべての人に使いやすいデザイン"というものがあります。


でも、これってものすごく難しい話です。



僕みたいな学生でさえひとつの商品ですべての人に使いやすいものを作るというのはまず不可能なことであるということがわかります。



ではここで日本人間工学会が出しているユニバーサルデザイン実践ガイドラインを参考にしてみることにします。

そこにはこのように定義づけられていました。


定義

ユニバーサルデザイン: 多様なニーズを持つユーザーに、公平に満足を提供できるように商品(製品、サービス、環境や情報)をデザインすること。


とあります。

ではここで取り上げられている多様なニーズをもつユーザーとは誰なのか?



ユニバーサルデザインというとなぜかバリアフリーと混同してしまいがちですが、ユニバーサルという名前のとおりに、その対象は身体的な障害をもつ人だけにとどまりません。



国籍、言語、年齢、性別、体格差そういった個人的な特性にまで考慮しての多様なニーズを持つユーザーという言葉であると思います。



国籍や言語、文化や価値観すら違う人間ですらUDの対象になっているのです。



それらのユーザーを満足させるものを作るというのですからそれを一つのもので出来るというのはとても不可能です。UDは魔法ではないのですから。




どうしても、日本でのUDブームの際に使われたスローガンはたった一つのプロダクトですべての人にとって使いやすいものを目指すというような誇張した意味合いで広まってしまったように思えてなりません。




市場の中で、右利き用のハサミしかないときに、左利きの人は使いづらい。左利きの人にとってハサミというものは非常にストレスのたまるもので自分とは遠い存在であると感じる。




でも、そこに左利き用の人のハサミを作ってあげたことでハサミというプロダクトが左利きの人にとって使いやすいものになった。




これだってユニバーサルデザインに入ると僕は思います。


そもそも市場に選択肢がない人にとっては、選択肢が増えることすらうれしいそうなのです。


あくまでもできる限り多くの人にというところがポイントな気がします。



その後、いくつかの書籍やいろんな方と話していくうちにユニバーサルデザインとは概念であり、デザインの理想であるということがわかりました。




なので、このデザインはユニバーサルデザインであるということ自体が厳密にいうと間違っていることになります。正確にはユニバーサルデザインの理念に基づき、作ったものです。



このあたりは、以前特別講義で話にでたコンピュータの父であるアラン・ケイが目指した理想のPC ダイナブック、またはアップルの出したコンセプトマシン ナレッジナビゲーター、とそれを実現させようと発達してきたPCたちの関係に似ているかも知れません。




その理想を求めるから結果的に一人でも多くの人に使いやすいというものに繋がっていくのだと思います。

一度に理想には追い付かない。段階的にでもいいから理想に近づいていくそういったことが今現在のUDに携わる人の姿勢なのかもしれないと思いました。



UDが日本に入ってきた時に、定義づけがしっかりされずに広まったことがどうやら今のUDの位置づけに大きく影響しているようです。



人間工学のデータに沿って作ればUDなのか?

ロン・メイスのUD7原則に従えばUDなのか?

バリアフリーはUDに入るのか?




たくさん疑問は出てきますが、UDというものに細かい定義づけがないので「UDの理念に沿って作った」と言えばUDになってしまう世の中なのかもしれません。



UDと名のつくものでも本当に調査や検証をしてるのかと疑問に思うものもあります。



そんな中、UDをうたい文句にしているデザインは数ありますが、そういったものがUDだからと言って売れるかといわれると必ずしもそうではないようです。




デザインの審美性もあるのだとは思いますが、それ以上にいま世の中に出てきているUDと名のつくものはすべての人に使いやすくいいながら、バリアフリーと混在されているものも多い気がします。




手に障害を持つ人のためにデザインしたハサミ(仮にUDハサミとします)が、手になんの不自由もない自分たちにとって使いやすいかと言われると話は別です。


UDハサミを自分たちは使えますが、ただ使えるということと使いやすいということは違うことです。

UDとは障害を持つ人と、持たない人の満足度(使いやすさ)の平均値をとることとはまた違ってきます。



お互いの平均をとることで製品の性能さえ制限し、低下させてしまうくらいであればどちらかに特化したほうがより多くの人に受け入れられるものになるでしょう。



UDを売りにして市場に入っていくのではなく、僕が思うにUDとはもっと人々の生活の中にさりげなく点在し、馴染んでいるものであるべきだと思います。


そのいい例が牛乳パックの凹みだと思います。




最近増えてきましたが牛乳パックには注ぎ口の反対側にへこみが付いています。



これにより手で触ってどちらが開け口かわかるのです。
目が不自由でない人でも、間違えて反対側を開けてしまったことがある人も多いはず。

そんな人もこれを知っていればもう間違いませんね 笑



この生活の中に溶け込んでいる感じが大切だと思います。

なんだそんなことかと思うかもしれませんが、そんなことでも、見事にUDを実践して見せているのです。



UDはまるで便利でデザインの救世主のように、特別なものであるかのように宣伝されてきましたがもっと生活の中に自然と密着し、当り前にあらゆるデザインの根底にあるべき理念であると思います。

そしてその理念とは大袈裟な宣伝などしなくとも、さりげなく生活の中で確かに多くの人を助けているこのようなデザインに近いのだと思います。




UDにはたくさんのアプローチの仕方がありますが、僕がなるほどと一番納得できたのがこの例でした。

シャンプーのギザギザや、お酒の点字のように身の回りにあるものでも、ちょっとした工夫で多くの人に使いやすくなるものはまだまだある気がしてなりません。


以下、今日のまとめです。

・ユニバーサルデザインとはデザインの理想であり、理念である。

・バリアフリーとユニバーサルデザインは違う。

・ユニバーサルデザインとはもっと人の生活の中に溶け込んでいくべきもの。

2008年11月9日日曜日

トヨタUD ファイナルプレゼンテーション



昨日はトヨタUDのファイナルプレゼンテーション。



この半年間ずっと卒業研究すら放置気味にして力をかけてきたプロジェクトだったのでそれも終わりかと思うとなんだか感慨深いものがある。


この日に向けて連日の徹夜。移動中は寝ます。



各チームがプレゼンテーションをして最後に優秀賞の発表となったのだが、どうやらわがチームは惜しくも(アドバイザーや審査員のかたの話を聞く限り)二位だったらしく賞をとることができなかった。

順位や賞がつけられるものの中でそれが取れないことはなんて寂しいことだろうか。
本気でやってきただけに悔しいものがある。

参加することに確かに意義はある。それによって学んだこともたくさんある。

それでも、賞をとれることと、取れないことの差は大きい。

ただひたすら自分の詰めの甘さと、未熟さを痛感させられた日だった。

2008年10月30日木曜日

たったひとりのためのデザイン。

30日はトヨタUDサブミーティングの三回目に出席するため、お台場はパレットタウンにあるユニバーサルデザインショーケースにいきました。


11月8日にファイナルプレゼンテーションが迫り、最後の調整となっています。

ワークショップではあるのですが、一応結果に順位が付きます。

そこで、見事一位になれれば特典があるわけでみんな頑張って追い込みの最中です。

昨日は僕がプレゼンテーションをしたのですが、なんとか無事に乗り切りホッとしている最中です。

先生方に質問されたときにパッと相手の望む答えが出せる。というのは、毎日のようにフィールドワークに出て観察を続けたおかげだなと痛感しました。

デザインとは観察から始まると前に言われたことがあるのですが、なるほど、実際に体験してみるとよくわかりますね。

講師の皆さんからは概ね良い評価を得られたように思います。

各チームのプレゼンテーションが終わると、今回の運営をしてくださっているトライッポッドデザインの中川さんから「たった一人のためのデザイン」という講義がありました。


プレゼンの中にもその単語が出てきたのですが、ペルソナを使ったUDのアプローチです。

タイトルにもあるとおり、たった一人のペルソナのためのデザインを追及することで、そのほかの人へも使いやすいものが出てくるのだそうです。

UDを実践していくにあたって、重要になってくるのがどれだけ暮らしの実態に迫ったかということです。
そういった意味でユーザーの飾り気のない生活を観察するというこはかなり大きなウェイトになってきます。

また、フィールドワークなどで発見した気づきですが、
一人を深堀することで気づきが進化するのだそうです。

この一文はペルソナを使ったデザイン提案をよく表していると僕は感じました。
ペルソナは足かせでなく、気づきを進化させるための情報でもあるのだと思います。

誰のためにデザインするかということを明確にするのがペルソナ手法であるといわれていますが、
ユーザーを明確にしたことで更なる発見や気づきの進化があるわけですね。

ここでは事例として脳性マヒによって指先がうまく使えない女性をずっとつきっきりで(コンテキスチュアルインクワイアリー法ですね)取材したときのことを出していました。


密着取材を続けていくうちに、その女性の本音は以下の三つであることがわかったそうです。

1.本当にかっこいい下着がほしい。

2.良い歯ブラシがほしい。


3.使いやすいお箸がほしい。



この中から3番の使いやすいお箸をデザインすることになりました。

ここでまず彼女と一緒に生活し、観察に入ります。
彼女は脳性マヒの影響で、右手の指を数本しか動かすことができません。

そんな状態でも、お箸を使って食事をしているそうです(使いこなすのに3年かかったそうです)

そんな彼女が今のお箸にもっている不満は以下のようなことでした。

・丸くないこと(机の下に転がってしまってはそこでおしまいだから)

・四角い箸を使っているが角が食い込んで指に負担がかかること(痛くなってしまう)


最初、デザイナーがバネがついたような食べることをアシストするお箸を提案したところ、彼女に即却下されたそうです。


・せっか
年もかけてお箸を使えるようになったのに、バネなんかついているのはやだ。

・お箸を使っている自分を格好よく見せてくれるものでなかったら使いたくない。



さらに彼女はこういったそうです。


「プロダクトデザイナーはすぐにバネとかついたものを作りたがる」



確かに、障害を持つ方のためのデザインと言うとそういったものを想像してしまいがちです。

そういったものが必要な人もいるとは思うのですが、何でもかんでもそういったスタンスで作ろうとするのがデザイナーのエゴ(決め付け)なのかなと思いました。

そのデザイナーの考えの中に実際に使うユーザーが決まっていない場合が多いのです。

だけど、ユーザーが明確であるから、そういったものにならなかった。

実際の本人からそれが却下されたということなのだと思います。

また、彼女に密着取材する上で、彼女のお箸の使い方が見えてきたそうです。

中でも興味深かったのが、挟むというタスクを立てて彼女にお箸を使ってもらっているときに、実際は行動の三割程度は刺しているということがわかったそうです。



ユーザーは自分の言葉や概念で物事を定義していると中川さんはおっしゃっていました。

ユーザーの中の定義と自分の中の定義が一緒であるという前提を無くさなければいけない。

ユーザーに対するヒアリングは大切ですが、こういった意識間のずれというものがあるので、そこを注意して情報を扱わないと大きな勘違いを起こしたままデザインをしてしまいそうです。


このようにプロトタイプの作成と評価を繰り返した結果できたお箸がこちらだそうです。




指が当たる部分がえぐれているデザインの箸です。
写真を見せてもらったのですが実際に協力者の方に渡したものはアクリル製の透明なものできれいでした。その方はいろんなところにもって行って見せびらかしてつかっているとか。


このお箸、使ってみたら自分たちでも使いやすかったので、提案してみたところ今ではJALの国際線のファーストクラスに使われているのだそうです。


ここで思います。
もし、最初に提案したバネつきのお箸だったなら、自分たちにも使いやすかったのでしょうか。
JALのファーストクラスに採用されていたでしょうか。

ユニバーサルデザインとは、魔法のように万能なイメージが先行して広まってしまいましたが、こういった地道な活動をもとに、日常の中にさりげなく存在していなければいけないのではないかと僕は思います。

使いやすさだけでなく、メンタルな、エモーショナルな部分をどう詰めていくか、実際の協力者(ペルソナ)とどうかかわっていくか。いろいろと勉強させられた一日でした。

2008年10月15日水曜日

トヨタUD ワークショップ 3

本日はお台場にてトヨタUDのワークショップ。

具体的なデザイン提案を見せるはずだったのだが、多くのチームがデザイン提案をする前の段階でアイデアスケッチを見せていた。もう最終プレゼンまで一か月ない。

また、プロトタイプを作っているチームは、卒業制作と兼ねていた某美術系大学だけだった。

前回のエントリーを書いているときも思ったのだけど、なんでユニバーサルデザインのワークショップなのにプロトタイプをつくらないのだろうか。ものをつくって、検証、評価を繰り返して初めて使いやすいものになると思うんですが。

結局、運営側が作れといっていないから作らないだけなのかもしれないですね。

でも、やれと言われてないのでやらない。

というのは、

「だって言わなかったじゃないですか」と上司に逆切れする新入社員のようなものだと僕は感じます。


結局UDを謳っているのに、運営側が言わないからやらないというのは、このワークショップをUDを学ぶ場所としてではなく、コンペティションとしてしかみていないのではないかとさえ思ってしまいます。

自分が作ったもので、対象とするユーザーとそれを取り巻く環境がどうかわるのか。
そういったことに意識がいっていないのではないかなと思いました。
(たぶん、ユーザー像を立てても本当に使われるというシーンをリアリティをもって思い描いていないのかな)

プロトタイプをつくらないということは、自分たちが作ったものが本当に思い描いた通りのものになっているのか、使いやすいのかを検証する習慣がないということにつながっていくのではないでしょうか。


まぁ、こんな偉そうにいってますけど、かくいう自分も去年のはじめまではそんなこと考えもしなかったですが(むしろモックづくりが一番苦手でした)、いまじゃ普通にプロトタイプを作るようになっていて人間変われば変わるものですね。

2008年10月13日月曜日

工作の時間です。


本日はUDワークショップが近いので、我らがチーム「TOYCAST」のミーティングでした。

僕たちが取り組んでいるのはベビーカーで、ベビーカーとは呼ばず(赤ちゃんが運転しているわけではないし)育児モビリティとして、取り組んできました。

14日には具体的なデザイン提案を発表するのですが、そのためのフィールドワークと、ワークモデルの製作を本日しました。

フィールドワークに街へ出かけます。

今回は、インタビューで協力者の方が行っていた

「ショッピングモールが一番居心地が良い。育児中の母親にやさしい」

という言葉をもとに観察にでかけました。(今回で、6回目ですが毎回いろんな発見があります)

と、いきたいところですがショッピングモールの中のラーメン屋でお昼にすることに。

なにはなくともエネルギー補給!!

熊本ラーメンを堪能しました。

フィールドワークを終えて、研究室へ帰還。

売り場でもらってきた「お客様用段ボール」でプロトタイプを作ります。




だれもいなくなった部屋でもくもくと作業を続けます。いつも散らかすので、最後の掃除機は必須。
来たときよりもキレイにというところは小学校の遠足と同じ。












足に簡易的に自在のキャスターを装着。「高さあってる?」的な場面。






と、ここまで作ってみて思ったのが、今回のワークショップにプロトタイプを作っての検証が入っていないということでした。いつもの癖で、簡易的にでもプロトタイプをつくっているのですが、ほかの参加しているチームたちはあまりプロトタイプをつくらないでいるようです(前回までの話ですが)

UDのワークショップなのに、プロトタイプをつくらないで、絵だけで評価をするということに疑問をもちました。

確かに、今回のワークショップ(というなのコンペ)で最優秀賞になればT社がモックを作ってくれると言っているのですが、UDって名前が付いている以上そうもいかないんじゃ……。

今、見えてないだけでこれからみんな作っていくのかな。

そうあると信じてみます。

2008年9月26日金曜日

トヨタUDワークショップ サブミーティング





24日はお台場は東京テレポートにあるMEG@WEBにあるトヨタユニバーサルデザインショウケースにてトヨタユニバーサルデザインワークショップのサブミーティングに行ってきました。

このワークショップは今年の五月から始まり、最長で来年の二月まで続く長期スパンのワークショップです。
コンセプトの立案、夏期休暇を利用したユーザー調査、それを受けてのデザイン提案をし、11月の最終プレゼンテーションで、いいデザインであると認められればモックアップを作成してもらえ、ショウケースにて一年間展示をしてもらえるというものです。

今回は、せっかくの機会なので、お互いに刺激をもらうために山崎研究室と、お隣の感性デザイン研究室の生徒さんと、三年生の有志が混ざっての混合チームとして参加しました。

今年のお題は「パーソナルモビリティ」ということで、各チームフィールドワークをし、そこから得られた気づきをもとにどんなモビリティをつくるのかを検討してきました。

今回のサブミーティングでは、夏休み中に行ったユーザー調査の結果から得られたものをもとにデザインの指標を発表し、各講師陣からアドバイスや意見をもらうというものでした。



自分たちは、今回のデザイン活動を、人間中心設計のプロセスを使い、ペルソナ、シナリオ手法を使っていくことにしました。

その理由としては、人間中心設計のプロセスがそのままUDにつながる部分があるということと、それぞれ別のタイプの人間があつまり、デザイン活動をしていくということで”情報の共有化”を図るためです。

僕のチームは、HCDや情報デザインを学んでいる自分と、感性デザインの研究室でカーデザインを専攻している人、三年生は、グラフィック系のデザインを志望している人と異なる分野の人間が集まっているのでとても刺激をもらっています。

今回は各チームのデザイン指標を発表したわけですが、その中で気になることがいくつかありました。

夏休み中に得たユーザー調査の結果や、行政からもらってきた調査報告書などがあったのですが、そのデータってどのくらい信用できるものなんだろうかと思ったわけです。

例えば、ユーザーの行動パターンや、アンケート調査などでデータを持ってきましたと言われても、

だからどうしたいの?となっている部分も多いように感じました。

あれですよね、参考書を買って勉強した気になるっていうパターンです。

前にも書いたと思うのですが、プロセスに従ってユーザー調査をしました。テーマに関連するデータをもらってきました。ガイドラインに沿って実験や分析をしました。

といったところで、それでどうしたいの?というふうになってはいけない。

まさしく先日のインフォメーショングラフィックスについての話と本質は一緒だと思うのです。

データを手に入れました。じゃあそれをどう生かして、どうアウトプットに落とし込むのか。

また、そのデータは本当に信頼していいものなのかということも考えるべきなのではないかと思います。


僕はどうしても穿った見方をしてしまうのですが、企業や行政の出すデータをどこまで信用するべきだろうかと思うのです。

今回は行政のだしたデータでしたが、自分たちの行動(インフラ整備)によって安全性が増したかどうかの評価結果だったのですが、その評価自体が、いったいいつ、誰が、どうやってどんな状況で、どんな方法で行ったものなのか。

また、インタビューやアンケートの質問項目はどういった内容だったのかというところまで見ないと僕個人としてそれって自分たちに都合のいいように設定してるんじゃないかと疑ってしまいます。

特に調査や評価を行う際には仮設は必要なわけですが、その仮説に引っ張られて自分の都合のいいように調査や評価を行っているケースも多い気がします。(学生、行政、企業関係なくですが)

手段と目的が反転するというのはどの段階で、いつになっても起こりうるのかもしれません。

そのつど注意していかないといけないですね。




話は変わるのですが、りんかい線 東京テレポートの駅のエレベータですが、

この上の光っているのは実はボタンではなくただの表示で、下の車いすマークの上のボタンが実際のエレベータを呼ぶボタンになっています。

なんかもうちょっと考えたり、簡易的にでも評価を行えばわかりそうなものなのにひどいデザインです。

公共機関でのわかりやすさ、使いやすさというのはまだまだ放置された状態に近いのかもしれないですね。